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「真田丸」はなぜ築城されたのか? 日本城郭検定保持者が解説する「真田幸村の戦術と勇気」

 三谷幸喜さんが脚本を手がけ、堺雅人さんが主演で話題のNHK大河ドラマ『真田丸』。  いよいよ堺雅人さんが大坂城に入り、家康率いる徳川方と一戦まみえるワケですが、まず最初に確認しておきたいことがあります。それは「大坂の陣は冬と夏に2度行われており、真田丸が築かれたのは最初だけ」ということです。 大坂城 冬の陣では砦(真田丸)に入って徳川軍をぶっ潰し! 夏の陣では特攻をかけて家康を死の寸前まで追い詰めて!いるんですね。 1614年→大坂冬の陣(幸村が真田丸で奮戦) 1615年→大坂夏の陣(幸村が家康に死の特攻・大坂城は陥落)  この2点を事前に把握しておけば、今後のドラマストーリもすんなり頭の中に入ってくるでしょう。今回の記事で説明申し上げたいのは、大坂冬の陣に設置された、砦としての「真田丸」です。  一体「真田丸」とは何なのか?

大野治長たちの籠城策は弱腰でもなかった!?

 一般的に真田丸は「大坂城の弱点と言われ、唯一の陸続きである南側の“平野口”を強化するために築かれた馬出(うまだし)もしくは出丸(でまる)」と説明されます。  城の補強のため真田丸が築かれたのは、確かにその通りです。  ではなぜ、大坂城の「外」に真田丸という砦を設置する必要があったのか?  それを考えるには、大坂城内での豊臣方首脳部や真田幸村たち浪人衆などの立場なども考察しておくのが肝要です。  大坂冬の陣が始まる前、大河ドラマでもありましたように後藤又兵衛基次や真田幸村などの浪人衆が、城から出陣して近江の瀬田などに陣を取り、先制攻撃を仕掛ける戦略を主張しました。  畿内の要衝で徳川方の大軍を迎え撃つには最適なポイントだったからです。  しかし、この計画は豊臣方首脳部によって却下されます。彼らにとっては浪人衆がいまいち信用できなかったというのもあるのと同時に、大坂城の守りに絶対的な自信を持っていたのでしょう。  大野治長などの豊臣家直臣たちは、幸村などの浪人衆と比較され、小説などではなんとな~く弱腰に語られがちです。そのため「大坂城で迎え討つプラン」はイマイチなんじゃないか? と、思う向きもあります。が、実は彼らも浪人衆と同じく主戦派です。  ただ、大野たちの目的は「豊臣家の存続」であり、戦で徳川家を徹底的に叩きのめすことではなかったのです。合戦はあくまで豊臣家存続に有利な条件を引き出すための手段でしかありません。  そういう意味では長期戦に持ち込める籠城は決して悪くはありません。特に大坂冬の陣ではその成功が豊臣方に有利になる理由がいくつか考えられました。  まず大きいのは、家康の寿命です。  もし戦いが何年もダラダラ続けば高齢の家康はいずれ死に、2代目・秀忠の時代になるでしょう(といっても既に将軍職は譲られていますが)。  秀忠の娘は大坂城の主・豊臣秀頼の妻として同城におります。そればかりか秀頼の母である淀の方と秀忠の妻・江の方は浅井三姉妹という血の濃い親戚関係でもあります。ゆえに豊臣家の存続は固いと踏んでいました。  後詰も期待できない豊臣が、この期に及んで徳川幕府をひっくり返して政権を奪取するなんて馬鹿げた考えは毛頭なかったでしょう。
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真田丸は幅180m 甲子園球場で118m
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