更新日:2022年08月08日 03:28
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「真田丸」はなぜ築城されたのか? 日本城郭検定保持者が解説する「真田幸村の戦術と勇気」

徳川家の黒歴史にハメる真田幸村の必勝戦術

 真田幸村の戦術は、徳川方の先鋒を真田丸に引きつけて攻城戦に持ち込み、撃退したところで、退却する敵を追撃し、さらに本陣へと切り込む手順が考えられます。  そのため真田丸の城兵は、まず城外の真田丸付近にある「篠山(ささやま)」という小高い丘に陣取り、徳川方の先鋒到着を待ちます。  篠山の具体的な場所は判明しておりませんが、戦場全体を見渡せ、真田丸に迫る位置にあった小高い丘を豊臣方が無防備で放置していたとはちょっと考えられませんので、真田丸の外郭のような位置付けだったのでしょう。 真田丸 一方、徳川方の先鋒は前田利常率いる加賀兵でした。  このとき関ヶ原の戦いから15年も経ち、戦国時代を暴れ回った武将たちも代替わりして、大坂の陣が初めての実戦で血気にはやる若い将兵だらけです。  心配した家康の指示で前田の軍勢には鉄砲玉避けの竹束を用意させたり、塹壕や土塁を構築したりするほど。  そんな中、篠山に陣取った真田の兵士が前田方に鉄砲を撃ち込んで挑発します。真田家にとっては使い古された挑発戦術ですが、前田家の将兵はこれに見事に引っかかります。  前田家家臣の本多政重(本多正信の次男)は篠山まで陣を進めました。  が、真田家の兵士は既にもぬけの殻。あっさりと拠点を放棄して真田丸まで後退し、そこで勢いづいてやってきた徳川軍の先鋒たちに壊滅的な被害を与えたのです。  一説には千を超える死者が出たとも言うほどでした。もう幸村の狙いは完璧なまでに当たったのです。  が、しかし! ここで幸村にとっては最悪の展開が待ち構えておりました。  なんと豊臣方の首脳部が家康の和睦を受け入れてしまったのです。  真田丸は敵を引きつけ、多大な犠牲を払わせたという点では、拠点防御の役割を十分に果たしました。  しかし巨大な大坂城では所詮、局地戦の勝利でしかなく、豊臣方に圧倒的優位な条件をもたらすほどの戦果にはなりませんでした。  一方、徳川方は真田丸とは全く違う場所で大きな戦果を挙げていました。  それが徳川方の大砲による、大阪城の北側からの攻撃です。  現代でも大坂城の弱点は陸続きの南方だと信じて疑わない記述にあふれていますが、大坂城の本当の攻略ポイントを知っていたのは古今東西、徳川家康だけだったのではないか?と思うほど鮮やかです。

大坂城、本当の弱点はここだ!

 大坂城は黒田官兵衛、長政父子によって縄張りが施され、加藤清正などによって補強されたといわれています。当時としてはは間違いなく最高水準の築城です。  しかし大坂冬の陣では最新兵器が投入されました。  大砲(大筒・石火矢)です。  当時はまだまだ精度が悪く、動く標的には使えませんでしたが、目の前に巨大な「的」があればどうでしょう? この的にされたのが大坂城の巨大な天守でした。  天守が見えれば「本丸はココです」と言っているようなもので、多少精度は悪くともその方角に向かって撃ち込めばいいわけです。  そして大筒は見事に機能します。  ドラマで竹内結子さんが演じる淀殿が秀頼の意見を一蹴するなど強権を発動しておりましたが、実際の大坂の陣でも大筒の弾が偶然大坂城の天守に当たり、淀殿のご意向で和睦を受け入れてしまうのです。  真田幸村の出る幕は皆無でした。  結局、大坂城の防御は完璧といえど、それを運用する人間の能力に大きく委ねられるワケでして。戦に出たこともなければ初陣もしたことのない人間が、また外交交渉の経験もない人間が総大将(秀頼)の母だからという理由だけで口を出すのを認めてはいけません。  女が戦に口を出すなと言っているのではありません。  戦は戦のプロに任せるべきであり、外交もまた外交のプロに任せるべきなのです。  結局、優位を保った南側総構は冬の陣終了後に破壊され、続けざまに三の丸や二の丸の堀も埋められます。当然、真田丸も放棄したので、真田家得意の防御戦術も役に立たなくなります。  これが真田丸の全貌です。 <コンテンツ提供/BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) イラスト/富永商太> 文/R.Fujise(お城野郎) 日本城郭検定の第1回試験で最高位の2級に認定されたお城マニア。日本で初めて歴史をテーマにしたポータルニュースサイト武将ジャパンで「一人ぼっちのお城野郎!」を連載中。今回の記事の完全版『砦としての「真田丸」とは?城郭検定保持者が優しく解説する 真田幸村の智謀と勇気』も掲載
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