「真田丸」はなぜ築城されたのか? 日本城郭検定保持者が解説する「真田幸村の戦術と勇気」
以上のような前置きを踏まえ、次に真田丸の構造を確認してみたいと思います。 いきなりでなんですが、実は「どんな構造の砦だったのか?」というのはハッキリと分かっていません。残念ながら冬の陣後に埋められてしまったので、遺構もほとんど残っていないのです。 しかし偉い人たちの最近の発掘調査で、単なる城門を守る構造物でもないことが分かってきました。 一般的に真田丸は「馬出」のように云われます。馬出といえば、甲州流築城術に代表され、武田信玄家臣の山本勘助によって考案されたといわれる「丸馬出」が有名です。 城の中心であり弱点でもある城門を囲むように半円形の壁を城外で形成し、敵を迎え撃ちつつ、両翼の出入り口から馬を出して攻撃を加えるためのものです。 攻守に優れた防御施設だっため、真田丸と聞いて多くの人が最初に思うのは、この甲州流の丸馬出だと思います。 しかし、甲州流の丸馬出のイメージでいると、真田丸を見誤ります。逆に真田丸を甲州流の丸馬出のイメージでいると、甲州流築城術の「馬出」を見誤ります。 というのも真田丸は甲州流の馬出にしては、ありえないほど巨大、というかもはや馬出の規模を超えた構造物で「城」そのものなのです。 なんせそのサイズは東西180mで南北220mとされているほど。 ※奈良大学千田教授の研究によりますと、東西180→220m、南北220m→280mという試算(従来の説とは位置も若干異なります) たとえば甲子園球場ですとキャッチャーの位置からセンターのフェンスまでの距離が118m。東京ドームや福岡のヤフオクドームでも122mしかありません。サッカーのピッチは国際大会の規定で、広くても一方のゴールマウスから反対のゴールマウスまでの長さは110mです。 真田丸の長辺180mがどれだけの大きさは想像できたでしょうか。 では、なぜ真田幸村はそんな巨大な砦というか城を作る必要があったのでしょう? まず防衛の観点からいうと、一辺2キロ以上という大坂城の総構を守ると考えた時に、限られた兵力をいかに配置するかが問題です。 大坂城の南側の城門は4箇所ありますが、徳川方の攻撃ポイントが一辺2キロのどの辺りに重点が置かれるのか、また2キロに渡って全面で攻撃を受けるのかが分からない限り、兵の配置は流動的で定まりません。この時点で攻撃側に主導権を握られてしまいます。 戦ではいかに主導権を握るかが重要。では幸村はそれをどう引き寄せようとしたのでしょうか。真田丸は幅180m 甲子園球場で118m
大坂冬の陣では、豊臣方に後詰め(援軍)は期待できませんでした。ゆえに異なる戦略を考えねばなりません。 それが真田丸という超巨大な出丸の構築でした。 ターゲットの大坂城よりも突出した位置に、ど派手で目立つ構造物がある――。そんな状況で攻撃側は当然無視など出来ません。 城門を守る程度の馬出であれば、徳川の大軍を惹きつけられませんが、突出した場所でしかも巨大な構造物で『こいつ、何かヤバい!』と思わせれば、攻城側は必ず排除に向かいます。 攻撃側は必ず真田丸の排除に来ると分かれば守備側は戦略が立てやすくなります。まずは真田丸に兵力を集中すればよいからです。 相手の出方が分かった時点で主導権は守備側に移動。これが真田丸の役割の一つで、拠点陣地は相手を引き付けるものではなくてなりません。誰にも相手にされない魅力のないものではダメなのです。そういった意味でも真田丸は敵の目を引く巨大な構造物でなくてはならなかったのです。 真田丸が単なる大阪城の付属品ではなく、最前線の城の役割を持っていたことがお分かりいただけたでしょうか。守備側が主導権を握るためとにかく目立つ必要があった
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