TAKAとFUNAKI、そしてTAJIRI――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第314回(1999年編)
いっぽう、KAIENTAIの発展的解消から日本への帰国ではなくアメリカ永住を選択したFUNAKI(船木勝一)は、WWEとの正式契約から約半年間、生活の拠点としていたプエルトリコを離れ、1998年9月にテキサス州サンアントニオに新居をかまえた。
かつてはブルーザー・ブロディが暮らし、“ストーンコールド”スティーブ・オースチンとショーン・マイケルズが在住するサンアントニオはFUNAKIにとってあこがれの土地だった。
相棒のTAKAが単身ECWのサーキットを消化しているあいだ、FUNAKIは毎週月曜夜のプライムタイム・ショー“ロウ・イズ・ウォー”ではなく、Bショーとカテゴライズされる“スペル・アストロス”“サンデーナイト・ヒート”“ショットガン”(いずれも1時間モノのシンディケーション番組)のTVマッチに出場。1軍と2軍のボーダーラインに位置するむずかしいポジションで試合をこなしていた。
この時代のFUNAKIの対戦相手はマット&ジェフのハーディー・ボーイズ、エッジ、デビューしたばかりのカート・アングルなど近未来のスーパースターばかりだった。プロデューサー・サイドにとって使い勝手のいいユーティリティー・プレーヤーとしてのポジションはこのころに育まれたものだったのだろう。
TAKAとFUNAKIはその後、オリジナルのKAIENTAIとしてコンビを再結成し、1軍ロスターでふんばりつづけた。FUNAKIは「WWEのリングでは毎日が“サバイバー・シリーズ”」と語ったことがあるが、それは厳しい生存競争のなかで生きるWWEスーパースターの偽らざる本音だった。
TAJIRIはECWが活動停止する2001年3月まで同団体に在籍し、それから3カ月後に満を持してWWEと正式契約を交わしたのだった。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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