レイガンズ先生はなんでもわかってくれる――フミ斎藤のプロレス読本#020【ロード・ウォリアーズ編5】
レイガンズ先生がプロレスに転向したのは1980年。アメリカがモスクワ・オリンピックをボイコットした直後のことだった。
アマチュア・レスリング(グレコローマン)では、ノースダコタ州立大在学中にNCAAディビジョンⅡ選手権(1975年)に優勝したほか、モントリオール・オリンピック出場(1976年)、ワールド・カップ優勝(1976年)、パン・アメリカン・ゲームス優勝(1975年、1979年)、AAUナショナル選手権優勝(1979年)など数えきれないくらいのメダルとトロフィーを獲得した。
もともと指導者の道に進むつもりだったので、プロレスラーになってからもロサンゼルス・オリンピック(1984年)のアメリカ代表チームのコーチをつとめたこともあった。
アマチュア時代の輝かしい戦績、記録の数かずとくらべてしまうと、プロレスラーとしてのレイガンズ先生はそれほどパッとした活躍をしていない。ルックスやリングコスチュームや身のこなしもあまりプロレスラーらしくない。これは性格的なものだからしようがない。
レイガンズ先生は、日常生活のなかで少しでも長く、そしてずっとレスリングと接していたいからあえてプロレスを選んだ。カッコいい試合がしたかったり、セレブリティーのような生活がしたくてプロレスを選択したわけではない。
どちらかといえば、アマチュア・レスリングのコーチからプロレスのコーチに転向したと考えたほうがわかりやすいかもしれない。レイガンズ先生にとっては、プロレスはやるものよりも教えるものなのだろう。
気がついたら、アメリカでは試合をしなくなっていた。現役選手として新日本プロレスのリングに上がったり、ノートン、T・ホーム、D・フライらをコーチしたのは経歴も体形もそっくりなマサ斎藤との友情からだった。
ミネアポリスの道場には、練習生だけでなく現役組もやって来る。リングを使った練習をするためにホーク&アニマルのロード・ウォリアーズ、“ミスター・パーフェクト”カート・ヘニング、ショーン・ウォルトマン(Xパック)、バリー・ダーソウ(デモリッション・アックス)らが夜中にいきなり現れたりする。
レイガンズ先生はいつも笑みを絶やさずスーパースターたちを出迎え、スーパースターたちも先生にいろいろと相談をしたり、カウンセリングを受けたりする。
プロフェッショナルとしてレベルが同じくらいのところにいる選手たちの会話は、どうしてもぎこちないものになってしまう場合が多いらしい。
ひとりが上がればひとりが下がるというメカニズムのようなものが平等な立場でのフレンドシップを邪魔してしまい、道場のなかでも目に見えない火花が散ることがある。
レイガンズ先生とスーパースターズの会話ではそういういびつなテンションが生じることはない。貸し借りも、損得も、かけひきも、お世辞もブラフもない。
ルールはひとつだけだ。それは、先生をガッカリさせるようなことをしてはいけない、ということである。(つづく)
※文中敬称略
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ1
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