追悼 ジョー大剛さんの“摂生”“粗食”“週にいちどのお酒”――フミ斎藤のプロレス読本・特別編
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
さる11月4日、大剛さんがカルガリーの自宅で亡くなっていたことがわかった。死因が大腸がん。75歳だった。1973年、31歳でモントリオール遠征に出発して以来、44年間、ずっとカナダ在住だった。
2000年
カナダのカルガリーを訪れたら、まずジョー大剛さんにごあいさつをしておかなければならない。
大剛さんは新日本プロレスの海外在住エージェントで、おもな仕事は日本からやって来る新日本プロレスのヤングボーイズのアテンドと日本人レスラーのヨーロッパ・マットへのブッキング業務。
カルガリーで暮らすようになってもう26年になる。現役時代のリングネームは日本名が大剛鉄之介(だいごう・てつのすけ)で、英語名がトーキョー・ジョーTokyo Joe。ジョー大剛は“通称”ということになる。
1942年(昭和17年)、宮城県仙台市生まれ。本名・栄田幸弘。15歳で大相撲に入門(最高位・幕下三枚目)。1966年(昭和41年)、アントニオ猪木が23歳のときに設立した東京プロレスでプロレスラーとしてデビュー。
同団体消滅後は国際プロレスに移籍。1973年(昭和48年)、“狂犬”マッドドッグ・バションの推薦で海外武者修行に出発し、カナダ・モントリオール地区を長期ツアー。
翌1974年(昭和49年)3月、転戦先のカルガリーで交通事故にあい右足を切断。32歳の若さでやむなく現役生活にピリオドを打った。
自動車を運転しない大剛さんは、タクシーに乗ってスタンピード・レスリングの試合会場にやって来た。
かつて大剛さんがトーキョー・ジョーのリングネームで活躍したのは“カルガリーの父”スチュー・ハートさんがボスだった時代のスタンピード・レスリングで、現在のスタンピード・レスリングはその息子のブルース・ハート、ロース・ハートらがプロモートを出がけているインディー団体。
ハート・ファミリーのなかでプロレスラーとしてはいちばん成功したブレット・ハートは、この団体の運営にはタッチしていない。
それほど広くないアリーナのなかを大剛さんが歩いていると、ロースが走ってきて“ジョー”を呼び止めた。
「なあ、ジョー、頼むよ」といってロースは大剛さんの顔をのぞき込んだ。
“シンジロー”という名が聞こえた。公式発表なしで突然、新日本プロレスのリングから姿を消した大谷晋二郎のことだろう。
ロースは“シンジロー”をこの団体のリングに上げようとしていた。大剛さんは「さあ、どうかね」とイエスでもノーでもない返事をした。
「オレの足がなくなってから……」と大剛さんはつぶやいた。
やっぱり、1974年のあの交通事故が人生最大の転機になっていて、それまでのプロレス人生とそのあとのプロレス人生が大河ドラマの前編と後編をなしている。
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