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キラー・コワルスキー “キラー=殺人鬼”と呼ばれた男――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第8話>

 コワルスキー自身がベジタリアンだったこと、この事故から13年後にエリックがなぞのピストル自殺(離婚問題が原因とされる)をとげたこともこの“耳そぎ事件”をよりミステリアスな物語に変化させた。  コワルスキーは“まぼろしのNWA世界王者”だった。1962年11月(カナダ・モントリオール)、バディ・ロジャース対コワルスキーの60分3本勝負のタイトルマッチの1本めでロジャースが右足首を骨折して試合放棄。  コワルスキーはその後、テキサスなど南部諸州を世界ヘビー級王者としてツアーしたが、NWAの公式記録からは抹消された。  1960年代はNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズ、WWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノらと名勝負を展開。ゴリラ・モンスーンとのコンビではWWWF・USタッグ王座(1965年=現在のWWE世界タッグ王座のルーツ)を獲得した。  日本のプロレス史とリンクするところでは、日本プロレスの『第5回ワールド大リーグ戦』決勝戦(1963年=昭和38年5月17日、東京体育館)で力道山、『第10回ワールド・リーグ戦』決勝戦(1968年=昭和43年5月17日、大阪府立体育会館)でジャイアント馬場とそれぞれ対戦。  日本プロレスの“春の本場所”といわれた『ワールド・リーグ戦』2大会にエントリーし、両リーグ戦とも決勝戦に進出した外国人選手はコワルスキーだけだった。  馬場のアメリカ武者修行時代のエピソードを描いた劇画『ジャイアント台風』(原作・高森朝雄&辻なおき)にも実名で登場した。  1980年代後半にはレスリング・スクールを開校し、トリプルH、チャイナ(ジョージー・ラウアー)、マット・ブルーム(ジャイアント・バーナード)ら次代のスーパースターにレスリングを教えた。 ●PROFILE:キラー・コワルスキー Killer Kowalski 1926年10月13日、ポーランド移民2世としてカナダ・オンタリオ州ウィンザーに生まれる。本名エドワード・ヴラデスロウ・スポルニック。モントリオール版・世界ヘビー級王座、オーストラリア版・世界ヘビー級王座を保持。通算6回来日。1977年に引退後、ボストン郊外に“コワルスキー道場”を開校し、トリプルH、チャイナ、ペリー・サタン、マット・ブルームらを育てた。2008年8月30日、死去。享年81。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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