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ベイダー ニッポンの“最強ガイジン”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第71話>

ベイダー ニッポンの“最強ガイジン”<第71話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第71話は「ベイダー ニッポンの“最強ガイジン”」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 スタン・ハンセンと並ぶ日本のプロレス現代史における“ナンバーワン・ガイジン”である。  ビートたけしのTPG(たけしプロレス軍団)の刺客として新日本プロレスのリングに登場し、デビュー戦でいきなりアントニオ猪木から完全フォール勝ちをスコアした(1987年=昭和62年12月27日、東京・両国国技館)。  TPGは『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の番組企画だったが、“皇帝戦士”ビッグバン・ベイダーの正体は正真正銘のエリート・アスリートだった。  1985年、ブラッド・レイガンズのコーチを受けてAWAでデビューし、ヨーロッパ・マットの大ボス、オットー・ワンツOtto WanzのブッキングでオーストリアCWAに遠征。  ブル・パワーのリングネームでオーストリア、ドイツを長期ツアー中にマサ斎藤にスカウトされた。  “TPGの刺客”ベイダーにはじつは3人の候補がいた。当時ヨーロッパをツアーしていたレオン・ホワイト、ジム・ヘルウィグ(のちのアルティメット・ウォリアー)、新日本プロレスの留学生だったブライアン・アダムスの3人で、プロデューサーのマサ斎藤がこのなかからホワイトを選出したのだった。  レオン・ホワイトはベイダーに変身した時点ではまだキャリア2年のルーキーだったが、新日本プロレスのリングであっというまに“大化け”してしまった。  新日本プロレスには約5年間在籍し、猪木、長州力、藤波辰爾から武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の“三銃士世代”と対戦。IWGPヘビー級王座を通算3回獲得した。  ジャパニーズ・スタイルのプロレスとサイコロジーを短期間でマスターしたきわめて特異なカラーのアメリカ人レスラーだった。  新日本プロレスと全日本プロレスの交流路線で実現したハンセンとのシングルマッチは、両者リングアウトという結果には終わったが、おたがいのプライドとひじょうに高いレベルでのプロレス哲学の交錯が屈指の名勝負を生んだ(1990年=平成2年2月10日、東京ドーム)。  新日本プロレスのブッキングで契約したメキシコUWAではカネックを下してUWA世界ヘビー級王座を獲得(1989年11月22日=メキシコシティー)。WCWでもWCW世界ヘビー級王座を通算3回獲得した。  1993年(平成5年)にUWFインターナショナルに移籍し、高田延彦を下して“94プロレスリング・ワールド・トーナメント”に優勝。プロレスリング世界ヘビー級王座を獲得した(1994年=平成6年8月18日、東京・日本武道館)。  アメリカ国内ではWCWからWWEに移籍し、新顔のサプライズとして“ロイヤルランブル”でデビュー(1996年1月21日=カリフォルニア州フレズノ)。  同年の“サマースラム”ではショーン・マイケルズのWWE世界ヘビー級王座に挑戦したがフォール負け(1996年8月18日=オハイオ州クリーブランド)。  WWEには2年8カ月間在籍したが、ついにいちどもチャンピオンベルトを手にすることができなかった。
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WWE退団後は全日本プロレスでハンセンとコンビに
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