恋愛・結婚

恋人が通う歯医者に嫉妬するのはヘンですか?――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第3話>

 家に帰ってから、アスカがモジモジと恥ずかしそうにしているのに気付いた。今日は歯の浮くような甘い台詞を何度も口にした。そのためにアスカが発情してしまったのではないか。そう思った私は重い腰を上げて一戦交える覚悟で彼女に近づいた。すると、アスカが小声でつぶやいてきた。 「あのね、お願いがあるの」 「どうしたの?」 「これからね、歯医者が終わるたびに私の歯を見て欲しいの」 「え?」 「私、歯医者さんのことがどうしても信用できないの。だからちゃんと治してくれてるか確認して」 「見るだけしかできないけど、それでもいいの?」 「うん」 「ああ、うん、分かった」 「ありがと!」  アスカが歯医者に行った日の夜は、彼女の口の中を診察することになった。嬉しそうに大口を開けて待つアスカ。歯に関する知識などあるわけもない私は、きちんと詰め物が入っているか、銀歯がしっかりとハマっているのかを目視するしかできないが、アスカはそれで満足そうだった。しかし、改めて見てみると、なんと虫歯の多いことか。いたるところに黒くなった歯が散見され、白い歯と黒い歯の配置がまるでピアノの鍵盤のようだ。音楽家になりたいという夢を持つ女に相応しい歯といえば相応しいのかもしれない。試しに指でアスカの歯を押してみる。音など鳴るわけないが、なんだか楽しい気分になった。  アスカの歯科検診をするようになって一ヶ月程で、私の中に二つの感情が生まれた。一つは性的興奮。同棲生活も五年を超えると、そう頻繁に身体を重ねることはない。私達もご多分に漏れずセックスレスに近い状態になっていたのだが、どういうわけか彼女の口の中を見ていると胸が高鳴った。おっぱいや女性器を見たり触ったりしている時よりも興奮していることが分かる。歯の形、裏側、色合い、アスカが自分で見ることのできない恥ずかしい部分をハッキリと見られる優越感、征服感が私を高揚させる。そしてもう一つの感情。それは嫉妬だ。浮気性のアスカがどれだけ不埒を働いても、相手の男に嫉妬しなかった私が、はっきりとジェラシーを燃やしている。その相手はアスカが通う歯医者さんだ。アスカの口の中を自由に見ていいのは私だけなのだ。勝手にアスカの歯をいじりやがって。ほとんど言いがかりに近い理由で、顔も知らない歯医者さんのことを心から憎んだ。  自分の感情をコントロールできなくなった私は、アスカと同じ歯医者に通うことにした。オレンジ色のドアを乱暴に押し開けて受付を済ませる。こちらの気持ちを何も知らないアスカは、二人で一緒の歯医者に通えることが嬉しくて仕方ない様子だった。私とアスカは同時に診察室に通された。待ち構えていたのは、LUNA SEAのボーカルである河村隆一によく似たイケメン歯科医。常に笑顔を絶やさない柔らかな物腰が、患者だけでなく同僚にも安心感を与えているのが分かった。すべてにおいて非の打ちどころのない相手に敗北感を覚えながらも診察をしてもらう。痛みを感じさせない完璧な処方だった。このまま終わるわけにはいかない。私は、隣の椅子に座っていたアスカを指差して「僕、この子の彼氏なんです。彼氏の口の中を見た後に、彼女の口の中を見るのってどんな気持ちですか?」と嫌な質問をした。歯科医は爽やかな笑顔で「付き合っているお二人の歯を一緒に健康にできるんですから光栄ですよ」と笑った。完敗だった。
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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

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