更新日:2022年12月10日 18:55
恋愛・結婚

恋人が通う歯医者に嫉妬するのはヘンですか?――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第3話>

 さまざまなタクシー運転手との出会いと別れを繰り返し、その密室での刹那のやりとりから学んだことを綴ってきた連載『タクシー×ハンター』がついに書籍化。タクシー運転手とのエピソードを大幅にカットし、“新宿で唾を売る女”アスカとの同棲生活を軸にひとつの物語として再構築したのが青春私小説『死にたい夜にかぎって』である。切なくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”爪切男(派遣社員)による新章『死にたい夜にかぎって』特別編、いよいよ開幕。これは“別れたあのコへのラブレター”だ。 【第三話】歯医者に通う二人 「ガコッ!」という嫌な音がした。愛する女の前歯が真ん中辺りでポッキリと折れた音だった。 「たまに無性にメントスが食べたくなる時ってあるでしょ? 今日がその日なの」  あの時、私が彼女の言葉を無視してメントスグレープさえ買わなければ、こんな悲劇は起きなかったのに。だが、お菓子をねだる女はいつだって可愛い。その魅力にあらがうことができる男など存在しない。ただ、前歯でメントスを嚙む奴も悪い。貴様はリスか。  たった今、前歯を一本無くした哀れな女の名前はアスカ。私の彼女だ。同棲をはじめてから、もう五年が経つ。アスカは心の病を患っており、仕事を辞めて自宅療養の日々を過ごしていた。ここ数年は断薬に挑戦していたのだが、その副作用である倦怠感に悩まされ続け、お風呂に入ったり、歯を磨いたりといった日常的なことをサボりがちになっていた。体臭がひどいことに関しては、私がにおいフェチの変態だから問題ないのだが、まさか、メントスの強度に負けるほどに歯が弱っているとは思わなかった。 「私、このまま全部の歯が折れていくんだ……」 「そんなことはないだろう」 「三十歳までに総入れ歯になったらごめんね」 「どうせ入れ歯にするなら最強の入れ歯を作ろう」 「……お金かかっちゃう」 「入れ歯のために働くなんてアホらしくて最高じゃない」 「本当にごめんなさい」 「歯なんてどうでもいいよ。お前が俺のことを好きかどうかが大事なんだよ」 「……」 「俺のこと好き?」 「うん」  嬉しそうにニコッと笑うアスカ。太陽のように明るい笑顔だ。いつもと違うのは、前歯が折れた所にポッカリと隙間が出来ていることだ。その隙間に小指を差し込んでグリグリしていじめてやった。  歯が無くなっても変わらぬ愛を誓ったものの、さすがにこのまま放置するのは衛生上よろしくない。歯の治療が苦手なアスカを説得して、近所の歯医者に行くことにした。アスカと違って、私は小さい頃から歯医者に行くことが大好きだった。生まれてすぐに母親がいなかった私は、片親育ちでもちゃんとした子供に育つようにと、体育会系の父親に厳しくしつけられた。強い人間であることを常に求められていた私にとって、歯を削られたり、詰め物をされることは、改造手術を受けて強くなる仮面ライダーのようで楽しかった。  店外装飾に加えて、内装まですべてがオレンジ一色で統一されたポップな歯医者。どうしてここまでオレンジにこだわっているのだろう。院長がミカンに命を救われた過去でもあるのだろうか。オレンジといえばオランダカラー。オランダといえば大麻合法国。まさか治療に大麻を使っているんじゃなかろうかと良からぬ想像をしてしまったが、「こんなバカっぽい所なら信用できる」というアスカの意思を尊重することにした。受付を済ませた後、「ずっと一緒だと子供みたいで恥ずかしい」とアスカに言われ、歯医者の近くにある喫茶店で治療が終わるのを待つことにした。思えば、後輩に風俗を奢る時も、こうやって風俗店近くの喫茶店で珈琲を飲みながら、その帰りを待っていた。誰かに待たされる人生は悪くない。それは自分が一人ではないことの証しなのだから。一時間後、アスカが喫茶店に勢いよく飛び込んできた。「ニン!」と付けたばかりの差し歯を自慢げに見せてくる。愛する女の差し歯を見ながら飲む珈琲もまた趣深い。前歯以外にもたくさんの虫歯が見つかったため、しばらくは通院する必要があるそうだ。
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帰ってからアスカがモジモジと恥ずかしそうにしているのに気付いた
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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

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