オナニーするため、愛する女の頭を撫でるためにこの手がある――爪切男のタクシー×ハンター【第三十二話】
―[爪切男の『死にたい夜にかぎって』]―
終電がとうにない深夜の街で、サラリーマン・爪切男は日々タクシーをハントしていた。渋谷から自宅までの乗車時間はおよそ30分――さまざまなタクシー運転手との出会いと別れを繰り返し、密室での刹那のやりとりから学んだことを綴っていきます。
【第三十二話】どんな天才でも、男は自分の手でダメなことをしている
私はあと一歩で放火犯になっていたかもしれない。
幼少の頃より火という存在に対して並々ならぬ興味があった。祖母はガスコンロの火を使って美味しい料理を毎日作ってくれた。祖父は集めた落ち葉に火を点けて焼き芋を作ってくれた。親父はライターの火を使って煙草を美味しそうに吸っていた。近所の農家は害虫駆除や土壌改良のために、自分の畑を燃やす焼畑を行っていた。友達の家は火事で全焼した。火があれば何でもできる。火は魔法だ。子供の私は火に大きな憧れを抱いた。
小学生の頃、火に異常な好奇心を示す私を見た親父は、使い古しのライターを私にプレゼントしてくれた。実家に多額の借金があった影響で、子供の頃の私は満足に玩具を買ってもらえなかった。物が無いのなら工夫するしかない。道路の白線からはみ出さずに歩いて帰るオーソドックスな遊びから、河原の石を粉々に砕いて、それを元通りに組み立てる石のジグソーパズル、自分の鼻をほじってどれだけ早く鼻血を出せるかを競う鼻血タイムアタックなどの、独自の遊びを開発してみたが、私の欲求が満たされることはなかった。そんな時、不意に与えられた火という最高の玩具。自由自在に操れる自分だけの火を手に入れた私は飛び上がって喜んだ。
「お父さん、本当にありがとう!」
「……お前に火の恐ろしさを教えておくぞ」
「……え?」
キョトンとする私の手を乱暴に引っ張り、親父は私の人差し指にライターの火を当てた。
「ぶぁぁぁ!!!」
今までに感じたことのない痛みに絶叫する私を見て、親父は満足そうに笑っていた。私が空を飛びたいとせがんだ時は、服の中にオニヤンマ数匹を投げ入れ、肌に直に感じるトンボの気持ち悪さで泣き叫ぶ私に「空を飛ぶのも大変だろう?」と言い放った親父ならではの実践教育である。ただ、親父の誤算だったのは、火の恐ろしさを知ることで、私の中での火への憧れがさらに高まってしまったことだった。
その日から、自分の身の回りのあらゆる物を、ライターで燃やし尽くした。チラシ、新聞紙、布、道端の草、鉛筆、消しゴム。あらゆる物に火を点けては、燃える様子と燃えている時の匂いを観察ノートに丁寧に記録した。その時の私は、この世の全ての問題は火で解決できると信じていた。
徐々にライターの扱いに慣れてきた私は、親父が煙草を吸おうとしたら、ヤクザの舎弟のように素早くライターを取り出しては、親父の煙草に火を点けるようになった。最初は驚いていた親父も、そのうちに満足そうな顔で煙を吹かしていた。冠婚葬祭などの人がたくさん集まる行事では、よく知らない親戚連中の煙草に火を点けて回った。そのご褒美でお小遣いをもらえることもあった。
その後も飽きることなく、朝から晩まで火で遊んでいる私に仕事が与えられた。お風呂焚きの仕事である。私の実家の風呂は、風呂釜の下でゴミを燃やして湯を温める五右衛門風呂式の風呂であった。火を燃やすことで家族の役に立てるとは、まさに一石二鳥である。毎夕、学校から帰ると、せっせと風呂焚きに励んだ。
テストの答案が燃える。周囲の人達から、家が貧乏だから頭が悪いと思われたくない一心で取った百点の答案が燃えている。百点を取ったところで何も変わらないのを分かっていながらに取った空しい百点。
借金の返済書が燃える。私が子供だから分からないと思い、そのまま捨てたのだろうが、子供にもそういうものは何となく分かる。我が家を苦しめ続けている借金の数字だけが燃えている。燃えるだけで借金は減りはしない。
親父と知らない女性が映った写真が燃える。袋に包んで捨てれば大丈夫と思ったのだろうが、袋で何重にも包まれた怪しいゴミを開封しないわけがない。この女性は誰だろう。親父の今の恋人だろうか。それとも私を捨てて家を出た母親であろうか。母親の写真ならこっそりと保管しようかとも思ったが、私は写真に火を点けた。どうにもならない過去よりも、今、目の前で燃え盛る火の方が大切だ。
私のちっぽけなプライドと借金と母の思い出が火となり、火と火が重なって炎になる。そんな炎で温められたポカポカの風呂で私達家族は疲れを癒して、明日も元気に生きていくのだ。
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『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!
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