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黒いホステスはニキビ少年に言った「頑張ったって仕方ない」――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第2話>

 さまざまなタクシー運転手との出会いと別れを繰り返し、その密室での刹那のやりとりから学んだことを綴ってきた連載『タクシー×ハンター』がついに書籍化。タクシー運転手とのエピソードを大幅にカットし、“新宿で唾を売る女”アスカとの同棲生活を軸にひとつの物語として再構築したのが青春私小説『死にたい夜にかぎって』である。切なくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”爪切男(派遣社員)による新章『死にたい夜にかぎって』特別編、いよいよ開幕。これは“別れたあのコへのラブレター”だ。

【第二話】頑張らない二人

 二〇一一年、お正月ムードも終わり、街が通常運転を始めた一月半ばの夕暮れ時。港区にある愛宕神社に遅めの初詣にやって来た。彼女のアスカも一緒である。オフィス街が連なる都会の真ん中に突如姿を現す由緒正しい歴史と格式を持つ神社。緑に囲まれた、都会のオアシスといった佇まいだ。

 二人の前には急勾配の石段がそびえ立っている。段数にして八十六段。その傾斜角度は四十度を超えている。途中に踊り場のような休憩地点は用意されていない。私たちは今から、この階段を一気に上り切らないといけない。

 私とアスカの同棲生活は六年目を迎えようとしていた。同棲を始めてすぐに重度の鬱病を発症したアスカは、仕事が全くできない状態になってしまった。自宅療養をしながら、少しでも抗鬱剤や精神安定剤を飲む量を減らしていこうと断薬生活を頑張ってきたアスカ。家計を支えるために朝九時から深夜三時まで働き詰めの生活を続けてきた私。罵り合い、抱きしめ合い、一緒に泣いて、一緒に笑ってきた坂道だらけの日々だった。

 初詣は近所の小さな神社で済ませるのが毎年恒例だった。今回、電車嫌いの私たちが、中野から愛宕神社まではるばる足を運んだのには理由がある。アスカが仕事を始めることになったからだ。新宿の求人広告を制作する会社に、見習いデザイナーとして見事に採用された。

 新宿。私とアスカが出会った街。初めて会った時、彼女は唾マニアの変態達に自分の唾を売り歩いて生活をしていた。唾の売上でマーティンの高級アコースティックギターを買い、そのギターで作曲した曲で音楽家になることを夢見ていた。そんな女に一目惚れをした、作家を目指す冴えない男。私と付き合うことをきっかけに、アスカは唾売り稼業から足を洗った。新宿から私達のすべてが始まった。そんな忘れられない街で、彼女は新しい一歩を踏み出そうとしている。それはとても素敵なことに思えた。

「防火」や「縁結び」のご利益で有名なこの神社だが、やはり愛宕神社といえば「出世の石段」である。地上にある大鳥居から社殿に向かって延びる急な石段。これを休まずに一気に上ることで仕事運が上昇するという言い伝えだ。しかも印刷関係、コンピュータ関係の仕事に効果があるとのことで、アスカの新しい仕事の内容にもピッタリだった。久しぶりの仕事に不安を感じているアスカを元気づけるため、愛宕神社に新年の誓いを立てに来たというわけだ。

「アスカ、準備はいい?」

「思ってたよりも角度が急でビックリしてる」

「この石段を馬で駆け上った曲垣平九郎っていうお侍さんが、将軍様に褒められて有名になったことが出世の石段の謂いわれらしいよ」

「馬に無理させる人嫌いだな。馬の気持ちがわからない人だったんだね」

「……」

「あと平九郎だかなんだか知らないけどさ、いちいち調べたの? やめた方がいいよ。気持ち悪い」

「……」

「私は知識がある男より馬に優しい男が好きだよ」

「……」

「じゃ、そろそろ行こっか! フォローよろしくね!」

 運動音痴のアスカが急いで上る必要はない。のんびりと一段ずついこう。一緒に第一歩を踏み出すべく、真横に立つアスカの手を握ろうとした瞬間、「自分の力で上るから優しくしないで!」と手を振りほどかれた。この感覚には覚えがある。私の初体験の相手は車椅子の女性だった。その女性からも「助けてなんて頼んでないのに優しくするな!」と怒られたことがあった。あの時と同じ感覚だ。昔から、私が好きになる女性はみんな気が強いから困ってしまう。「ふぅ」とため息をついてから、アスカがいつ転げ落ちてきても受け止められるように、彼女の三歩後ろの位置を保って出世の石段を上り始めた。

 これがアスカとの最後のデートになった。私はこの三ヶ月後にアスカから別れを告げられることになる。

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香川県にも石段で有名な神社がある

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死にたい夜にかぎって

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!





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