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アイアン・シーク “反アメリカ”を生きた大物ヒール――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第47話>

アイアン・シーク “反アメリカ”を生きた大物ヒール<第47話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第47話は「アイアン・シーク “反アメリカ”を生きた大物ヒール」の巻(Illustration By ToshikiUrushidate)

 国際政治がそのままプロレスラーとしてのキャラクターに“変換”された典型的なケースである。  第二次世界大戦後の“にせドイツ人”、米ソ冷戦構造時代の“にせソ連人”といった時事ネタのヒールはたくさんいたが、このアイアン・シークは正真正銘のイラン人。  アメリカ人がイランを嫌う理由は、1979年11月に在テヘランのアメリカ大使館で起きた人質事件“444日間の立てこもり”であることはいうまでもないが、もちろんシークはこの事件とはなんの関係もない。  プロレスラーとしての“公式プロフィル”ではイラン代表としてメキシコ・オリンピック(1968年)に出場して金メダルを獲得したことになっているが、じっさいは選手としてはオリンピック出場経験はない。  1970年にイランから亡命してアメリカに移住し、アメリカでグリーンカード(永住権)を申請中にAAU全米選手権(1971年=グレコローマン181ポンド級)に優勝。  アマチュア・レスリングのアメリカ代表チームのアシスタント・コーチとしてミュンヘン(1972年)、モントリオール(1976年)のオリンピック2大会に参加した。  1972年にバーン・ガニアにスカウトされてプロレスに転向。“ガニア道場”のトレーニング・キャンプではリック・フレアー、ケン・パテラらといっしょに汗を流した。  本名のカズロー・バジーリのままアマレス出身のベビーフェースとしてAWAでデビューしたが、その後はレスリングの技術を買われ“ガニア道場”でリッキー・スティムボート、ポール・パーシュマン(“プレイボーイ”バディ・ローズ“Playboy”Buddy Rose)、スコット・アーウィンScott Irwinら新人グループのコーチ役をつとめた。  “アラブ系”のヒールに変身したのは1976年で、アイアン・シークの新リングネームでオレゴン、ノースカロライナ、ジョージアをサーキット後、WWEと契約。  ビンス・マクマホン・シニアがザ・グレート・フセインという新キャラクターを考案し、WWEヘビー級王者ボブ・バックランドのチャレンジャーに抜てした(1979年6月4日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。  イランの“人質事件”が起こるまえだったから、観客の反応はあまりパッとしなかった。
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それから4年後
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