ゴールドバーグ “超人類”の一瞬のレガシー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第90話>
あっというまに現れて、あっというまに消えてしまった怪物レスラーである。
WCWの直営レスリング・スクール“パワー・プラント”でプロレスを学び、1997年6月、WCWのハウスショーでテスト・マッチをおこなった。
TVデビューから1年でいきなりハルク・ホーガンを倒してWCW世界ヘビー級チャンピオンになった(1998年7月6日=ジョージア州アトランタ、ジョージア・ドーム)。
ゴールドバーグの一撃必殺ジャックハマーを食らったホーガンが大の字にキャンバスにノビて完全フォール負けを喫するシーンはひじょうに衝撃的だった。
アメリカ人の感覚では、エリート・アスリートとフットボール・プレーヤーはほとんど同義語といっていい。ゴールドバーグは、つねにアスリートとしてのエリート・コースを歩んだ。
ジョージア大フットボール部時代は4年連続(1986年―1989年)でベスト・プレーヤー賞に選出され、NFLドラフト11巡めの指名でロサンゼルス・ラムズに入団(1990年)。
1994年、アトランタ・ファルコンズ在籍中にろっ骨骨折で故障者リスト入りし、そのまま退団。翌1995年、エキスパンション・ドラフトでカロライナ・パンサーズから指名を受けたが、シーズン登録メンバー入りできず退団。プロ・フットボールから引退した。
ゴールドバーグにとって、プロレスはフットボールができなくなったあとの“代用品”としてのサムシングだったのだろう。必殺技の名称となったジャックハマーJackhammerは、もともとリングネームにするつもりだった。
なにがなんだかわからないうちにチャンピオンになって、なにがなんだかわからないまま“マンデー・ナイトロ”の連続ドラマの登場人物になり、気がついたらWCWそのものが消えてなくなっていた。
NFL出身の超大型ルーキーだからあたりまえといってしまえばそれまでのことなのかもしれないけれど、ゴールドバーグはデビューしたときから“100万ドル・プレーヤー”だった。
現役選手としての初来日は全日本プロレスのリングだった(2002年8月)。WCW崩壊直前の2001年1月以来、1年7カ月ぶりの実戦のリングでゴールドバーグはその怪物キャラクターのほんの一部だけを披露した。
負傷を抱えてのカムバック戦で十八番ジャックハマーを温存したため、日本での評価はいまひとつだった。同年11月、“W-1(レッスルワン)”東京ドーム大会ではリック・スタイナーと対戦した。
WCW消滅から2年の空白期間をへて、ゴールドバーグはようやくWWEと1年契約を交わした(2003年3月)。
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