ボブ・バックランド ニューヨークの“若き帝王”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第46話>
クリーンカットでオールドファッションで純朴なイメージの最後のワールド・チャンピオンということになるのだろう。
アメリカのプロレスの基本はベビーフェース=正統派とヒール=悪役の闘いである。
カウボーイがいてネイティブ・アメリカンがいる。金髪がいてブルネットがいる。黒人もヒスパニックもアジア系もひとりかふたりいて、太ったレスラーものっぽのレスラーも頭がハゲたレスラーもマスクマンもいたほうがいいい。
でも、チャンピオンだけはごくシンプルなふつうのアスリート。これが昔ながらのプロモーターが考えるところの“プロレス一座”の景色である。ビンス・マクマホン・シニアはこのセオリーを大切した。
ミネソタ州プリンストン生まれのボブ・バックランドは、ノースダコタ州立大3年のときにアマチュア・レスリングNCAA選手権ディビジョンⅡで優勝(1971年=190ポンド級)。
翌年の同選手権では6位の成績を残し、大学卒業と同時にミネアポリスでエディ・シャーキーEddie Sharkeyのプライベート・トレーニングを受けた。
E・シャーキーはのちにジェシー・ベンチュラ、ザ・ロード・ウォリアーズ、リック・ルード、メドゥーサらをコーチした人物だが、バーン・ガニアとは犬猿の仲だった。
バックランドはAWAでデビュー後、オクラホマを経由してテキサス州アマリロに送り込まれドリー・ファンク・ジュニアのガイダンスのもとでジャンボ鶴田、スタン・ハンセンら“同期”とともにアマリロのリングでルーキー・イヤーを過ごした(1973年)。
無名時代のバックランドに最初にメインイベンターのポジションを与えたプロモーターは、“NWAの総本山”セントルイスの大ボス、サム・マソニックだった。
マソニックはアマチュア・レスリングとのリンクはプロレスの信頼性を高めるものと考え、ディック・ハットン、パット・オコーナー、ジャック・ブリスコらに代表されるアマレス出身のNWA世界ヘビー級チャンピオンをこよなく愛した。
キャリア3年でハーリー・レイスを下してミズーリ州ヘビー級王者(1976年4月23日=セントルイス、キール・オーデトリアム)となったバックランドは、まさにマソニックが理想とするタイプの“金の卵”だった。
マクマホン・シニアも“金の卵”を探していた。バックランドがレイスを倒してミズーリ州王者となってから3日後、マディソン・スクウェア・ガーデン定期戦でWWEヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノがハンセンとの試合中に首を骨折した(1976年4月26日)。
40歳の“生ける伝説”は引退を望み、ニューヨークもまた世代交代の時機を迎えていた。
マクマホン・シニアが頭に描いたWWEの新しい主役のイメージは、サンマルチノの残像をひきずらない“透明度”の高い20代のアスリート、オール・アメリカン・タイプのレスラーだった。
マクマホン・シニアは古くからの友人のマソニックに電話をかけた。マソニックは「バックランドという優秀なレスラーがいる。ブリスコのようなチャンピオンになるだろう」とマクマオン・シニアに伝えた。
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