ジミー・スヌーカ “スーパーフライ”は永遠の一瞬――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第62話>
トップロープからのダイビング・ボディー・スプラッシュ“スーパーフライ”とジャングル・ボーイのキャラクターで一世を風びしたレスラーである。
WWEヘビー級王者時代のボブ・バックランドのチャレンジャーとしてニューヨーク・マットに登場したが、そのワイルドな風貌と人間離れした肉体、十八番“スーパーフライ”が爆発的な人気を呼び、ベビーフェースにシフトチェンジされた。
“バックランド時代”エピローグの隠れた主役であり、“ハルク・ホーガン時代”プロローグの“助演男優”だった。
ニューヨークにやって来た時点ですでにキャリア15年のベテランだったから、どちらかといえば遅咲きのスーパースターといっていい。
無名時代はフィジー島出身としてではなく、ハワイアン、サモアン、ネイティブ・アメリカンなどルーツの異なるいくつかのキャラクターを演じ、ラニー・ヘオロハ、グレート・スヌーカ、タミ・スヌーカといったエスニック調のリングネームを使い分けた。
NWAミッドアトランティック地区(1978年―1980年)でのリック・フレアー、リッキー・スティムボートらとの定番カードがヒット商品となり、WWEに“発見”された。
バックランドとのタイトルマッチ連戦シリーズでは、ベビーフェースのバックランドにブーイングが浴びせられ、ヒールのスヌーカに大声援が集まるという逆転現象が起きた。
ニューヨークの観客は、5年間にわたりチャンピオンベルトをキープしてきたバックランドに拒絶反応を示しはじめていた。
人気者になったスヌーカは悪党マネジャーのルー・アルバーノLou Albanoとの仲間割れというドラマで正統派に転向し、20年ぶりにニューヨークに帰ってきた“ネイチャー・ボーイ”バディ・ロジャースを新しいマネジャーにつけた。
マイクを持ってのおしゃべりがどうしても苦手なスヌーカには雄弁なマネジャーが必要だった。
40代後半から上の年齢層のニューヨークのプロレスファンの多くが「いちばん心に残る試合」と語りつぐ一戦は、マディソン・スクウェア・ガーデンでおこなわれたスヌーカ対“マグニフィセント”ドン・ムラコ“Magnificent”Don Muracoとの金網マッチだ(1983年10月17日)。
ムラコが保持するインターコンチネンタル王座にスヌーカが挑戦したタイトルマッチは、ムラコが場外エスケープに成功してひとまず王座防衛に成功。、
しかし、試合終了後、スヌーカがムラコをもういちどリング内にひきずり込み、金網の最上段から30フィート(約9メートル)飛行の“スーパーフライ”をムラコに決めた。
それは永遠の一瞬だった――。
大学1年生だったミック・フォーリーがアップステート・ニューヨークの学生寮からヒッチハイクとウォーキングをかさねて合計12時間かけてガーデンまでたどり着き、ダフ屋から40ドルでチケットを購入し、この試合をリングサイド3列めで観戦したことはあまりにも有名なエピソードだ。
フォーリーの心のなかの映像アーカイブには、あこがれのスヌーカが宙を舞う姿がいまでもはっきりと焼きついているのだという。
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