エディ・ゲレロ “情熱のラティーノ”はちいさな名優――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第98話>
ECWの主役クラスになったとたん、WCWからヘッドハンティングされた(1995年)。WCWには約4年間在籍したが、この3人にペリー・サタンPerry Saturnを加えた新ユニット、ザ・ラディカルズはフロントとの対立から2000年1月にWWEに電撃移籍を果たした。エディはこの時点でWCWの内部崩壊を“予言”していた。
WWEはエディがありのままの自分を表現できる空間だった。スーパーヘビー級が標準サイズのリングでは、体がちいさいことはハンディキャップではなくて、むしろチャームポイントになった。
ビッグショーBig Showのような巨人タイプと試合をするときは“ズルあり、ウソあり、盗みもあり”の哲学が役に立った。
スペイン語なまりのストリート英語をしゃべるエディが画面に映っているだけで毎週木曜(当時)の“スマックダウン”の瞬間視聴率(15分ごとのクォーターアワー計算)が数パーセントずつハネ上がった。ビンス・マクマホンはこういうデータには敏感に反応した。
身長5フィート7インチ(約170センチ)、体重210ポンド(約95キロ)のエディは、“怪物”ブロック・レスナーBrock Lesnarを下してWWE世界ヘビー級王者になった(2004年2月15日=サンフランシスコ、PPV“ノー・ウェイ・アウト”)。
“情熱のラティーノLatino Heat”は、観客のハートをくすぐる等身大の名優の道を歩んだ。
いきなり“時間切れ”のゴングが鳴ってしまったのだろう。1年のうちの200日以上をずっとそうして過ごしてきたように、エディはその日もホテルのベッドで朝を迎え、だれにも会うことなくたった独りで地上から去っていった。
エディはフロントからの午前7時のモーニングコールに出なかった。いっしょに朝食を食べる約束をしていたチャボが部屋に電話を入れたが応答がなかったため、部屋のドアをノックしに行った。
それでも返事がなかったため、チャボはホテルのセキュリティーを呼んで部屋のカギを開けてもらった。もうそこにはいないエディは、ベッドの上ではなく、バスルームに倒れていたという。
エディの過去の薬物依存、アルコール依存については、その自叙伝『チーティング・デス・スティーリング・ライフCheating Death Stealing Life(死をダマし、生を盗んで)』にくわしく記されている。
死のカウントを2・9でハネ返したエディは、身も心もジーザス・クライストに捧げてボーン・アゲイン・クリスチャンになった。スーツケースのなかにはいつも聖書が入っていて、落ち込んでいる仲間がいるとドレッシングルームの端っこでバイブルの一節を読んで聞かせるようになった。
プロレスファンからもレスラー仲間からもとことん愛されたエディは、ほかのみんなよりも早く神様から呼ばれてしまったのだった――。
●PROFILE:エディ・ゲレロEddie Guerrero
1967年10月9日、テキサス州エルパソ出身。本名エドアルド・ゴリー・ゲレロ・ルレーンズ。1987年、メキシコでデビュー。1992年4月、初来日(新日本プロレス)。1994年、二代目ブラック・タイガーに変身。元IWGPジュニアヘビー級王者。ECW、WCWに在籍後、2000年1月にWWEに移籍。得意技はトップロープからのフロッグ・スプラッシュ。元WWE世界ヘビー級王者。元WWE世界タッグ王者。2005年11月13日、滞在先のミネアポリスのホテルで死去。死因は心臓発作。享年38。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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