バンバン・ビガロ 頭にタトゥーを彫った職人レスラー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第72話>
頭のてっぺんに炎のタトゥーを彫ったモンスター。
身長6フィート3インチ(約190センチ)、体重325ポンド(約148キロ)の超巨漢タイプだったが、ひじょうに身が軽く運動神経のいいレスラーだった。
だるまさんが転がるようなカート・ホイール=側転がトレードマーク・ムーブで、バンバン・ビガロというどことなくかわいらしいリングネーム、“アンコ型”の体つきとユーモラスな動きがファンから愛された。
ラリー・シャープLarry Sharpe主宰のレスリング・スクール“モンスター・ファクトリー”でレスリングを学び、1985年8月にニューヨークのインディー・シーンでデビュー。
頭のタトゥーは“暴走族”時代に彫ったもので、プロレスラーになるまえはニューヨークのナイトクラブでバウンサー(用心棒)をしていた。
テネシー、ダラスWCCW(当時のリングネームはクラッシャー・ヤーコフ)を約1年間サーキット後、1987年(昭和62年)1月に初来日し、いきなり新日本プロレスの“エース外国人”の座をゲットした。
1980年代の終わりから1990年代前半にかけての新日本プロレスの外国人選手のトップ・グループはビガロ、ビッグバン・ベイダー、スティーブ・ウイリアムス、スコット・ノートンの4選手だった。
かゆいところに手が届くようなタイプの器用なレスラーだったから、日本でもアメリカでも“便利屋”のようなポジションをまかされることが多かった。
旧ソ連のアマチュア・レスラーが新日本プロレスでプロレスに転向したときは、レスリングの経験があり、いざとなったらケンカも強い(とされる)ビガロがことばの通じない元オリンピック代表選手たちとボディー・ランゲージによるレスリングの手合わせをした。
大相撲・元横綱の北尾光司がプロレス入りしたときも、ビガロがそのデビュー戦の相手をつとめた(1990年=平成2年2月10日、東京ドーム)。
WWEでは“レッスルマニア11”のメインイベントで元NFLニューヨーク・ジャイアンツのスター・プレーヤー、ローレンス・テイラーLawrence Taylorの“プロレス体験”の実験台になった(1995年4月2日=コネティカット州ハートフォード)。
ビガロは「オレはブルーム・スティック(ほうき)が相手でもプロレスができる」と豪語した。
ニュージャージー育ちのビガロにとってニューヨーク・ニューヨークは少年時代からいつも遊びにきていた繁華街のような感覚だったけれど、WWEでのツアー生活は「まるで軍隊にいるみたい」(ビガロ)にきゅうくつなものだった。
WWEを“脱走”したビガロは、1990年代後半はフリーエージェントとしてアメリカと日本を行ったり来たりしながら、のんびりとプロレスを楽しんだ。
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