<平成ギャンブル名勝負第6回・競輪編2>
開催前にダンディ坂野と約束「優勝したら『ゲッツ!』」を全うした渡邉晴智選手
写真提供/(公財)JKA
31年に渡った平成時代のギャンブル名勝負を振り返るシリーズ。今回は競輪平成後半をお届けしよう。平成前半では中野浩一から吉岡稔真、神山雄一郎時代に移ろいだ平成前半の名勝負を取り上げたが、平成後半の競輪は
短期間で大きな変化を繰り返した。だが、「変わらない仕事」もある……
ベストレースの選者は前回にひきつづき、競輪ファンの父から強く影響を受け子供の頃から競輪に慣れ親しみ、
平成の競輪をフルに見届けてきた人気競輪予想ブロガーの政春氏に伺った。
レースが変化しようとも喰らいついたベテラン渡邉晴智
<平成20年(’08年)3月23日・日本選手権(ダービー)決勝>
「大ギヤは疲れると言うけれど、踏みこなせたらスピード出るし最強じゃね?」
山崎芳仁選手がこう言ったかはわからないが、それまで競輪界で主流だったギヤ倍数は3.57(※ペダル一回転で後輪が3.57回転する。一般的なママチャリで2.0程度。チェーンと連動するギヤの歯数を調整した結果は公表されて出走する)であった。そこへ山崎芳仁選手は
3.71のギヤで平成18年(’06年)にG1初優勝、さらにはその後4.00以上の調整で走り出し、G1で活躍して
「4ギヤ時代」が到来、競輪の競走形態が一変したのだ。
レース革命を起こし
「4回転モンスター」の名をほしいままにした山崎芳仁選手は現在G1を9回も優勝する平成の名選手となった。そんな山崎芳仁選手の絶頂期だった平成20年(’08年)の日本選手権決勝。
1渡邉晴智
2山田裕仁
3平原康多
4山口幸二
5山崎芳仁
6藤原憲征
7濱口高彰
8合志正臣
9小嶋敬二
レースは打鐘で前に出た小嶋率いる中部ラインに対し、
渡邉晴智と合志正臣を後ろに付けた山崎がホームで一気に叩いて先行。そのまま別線を寄せ付けず、ゴール前で番手渡邉が山崎を捉えて優勝した。
山崎の圧倒的脚力が目立ったレースだったが、政春氏にとっては想像が膨らむレースだったようだ。
写真提供/(公財)JKA
「このレースを振り返ると、当時も今も思うのです。
何で山崎はここまで教科書通りの先行をしたのか、と。この頃の山崎は4回転モンスターの名称と共に全盛期を迎えていました。そして自身はまだダービーのタイトルを取っておらず、競輪界最高峰のタイトルは喉から手が出る程欲しかったはずです」
確かに山崎選手のラインは、同地区北日本ではない南関の渡邉晴智選手だ。
「気をつかう相手ではなかったはずです。自分が勝つ為に大ギアを生かしたいつも通りの捲り(別のラインに先に仕掛けてもらい、スピードを生かして一気に追いかける)でも全く問題なかったんじゃないかと思うのです。でも山崎はそうしませんでした……それはなぜか? 展開がそうなったからと言えばそれまでですが、準決勝に神懸かった強さを発揮して
孤軍奮闘勝ち上がった地元のエースに対して、何か感情が揺さぶられる部分があったような気がするのです。大声援が送られている地元のエースに恥をかかせない組み立てをしてゴール前で真っ向勝負がしたい。山崎はそう考えたように思えて仕方ありません」
当時、静岡県所属の選手でG1を勝ったことがある選手は平成17年(’05年)に高松宮記念杯競輪(大津びわこ競輪場)で優勝した村本大輔選手しかいなかった。つまり、静岡競輪場で開催されたG1で地元優勝を決めた選手は一人もいなかったのだ。ベテランとなっていたが地元のエースだった渡邉晴智選手への期待は大きく、大声援が贈られる競輪場の空気が、山崎芳仁の心を揺さぶったのではないかと政春氏は想像している。
「当時の渡邉の優勝後のコメント第一声が『山崎君のおかげです』、確かそうだったと記憶しています。そして山崎も敗れたとはいえ役目は果たしたという晴々とした表情でしたね」