更新日:2020年02月21日 13:21
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槇原敬之の曲は“ドーピングか”という議論の無意味さ

 去る2月13日、覚醒剤取締法違反と医薬品医療機器法違反の疑いで逮捕された、槇原敬之(50)。1999年以来、2度目の逮捕に衝撃が走った。
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“薬物の力でできた曲”なのか誰にもわからない

 それと同時に、“作品に罪はない”説と、“ドーピング作品は認められない”説が再燃し、賛否両論うず巻いている。当然のことながら、作品を評価する基準は道徳的な善悪でなく、高級か否かである。仮に10回逮捕されようが、槇原氏の作品は高級であり続ける。    一方、“ドーピング作品は認められない”説は、どうだろう。クスリが脳に対して化学的に作用することで創造性が刺激されたのであれば、それはチート(インチキ)なのではないかとする見方だ。これを100パーセント否定するのは難しい。楽曲制作の段階で薬物の力を借りたのか、証明するのは不可能だからだ。

槇原の曲は、世間がイメージする“ラリった”音楽と正反対

 それでも、彼の楽曲が、世間一般が想像する“ラリった”音楽と違うことは指摘しておきたい。  槇原氏は、覚醒剤漬けだった1960年代のボブ・ディランよろしく<君のバルコニーの廃墟から 君の黄色い鉄道を眺めている>(「Absolutely Sweet Marie」 原詞・And now I stand here lookin’ at your yellow railroad In the ruins of your balcony)なんて歌詞は書かないし、ブライアン・ウィルソンのように、あらゆる関節を脱臼させていくようなミステリアスなコードチェンジも使わない。当然、ビートルズやジミ・ヘンドリックスみたいなサイケ趣味もなければ、ボブ・マーリーに代表される大麻の脱力感もない。  槇原氏が敬愛してやまないエルトン・ジョンの1980年代は壮絶だった。コカイン漬けの興奮状態で、暴力沙汰のようなスタジアムライブを繰り返していた。しかし、槇原氏のライブ映像からうかがえるのは、アットホームな雰囲気。誤解を恐れずに言えば、常識が支配する世界だ。  つまり、槇原氏の音楽に一貫しているのは、これらの“悪行”とは真逆の明晰さなのである。

「どんなときも」から一貫した明晰さ

 それは、3枚目のシングル「どんなときも」からも明らかだ。まずは、言葉の響きを音楽の土台に据える原理原則から見ていこう。歌いだしの、<僕の背中は自分が 思うより正直かい?>から、節回しとバスドラのキックが完璧に一致しつづける。この“タン、タタン”という基盤があってはじめて、<どんなときも>のフレーズが生きるのだ。  これこそが、槇原氏の全ての楽曲の根幹をなすものである。言葉の中にこそリズムがあり、そこからしか音楽が生まれないというディシプリンだ。ダンスのステップのように曲調を決定し、聴き手が身をゆだねられる根拠となるものである。ドーピングの有無に関わらず、ここだけは槇原氏の全キャリアにおいて揺るがない。  「世界に一つだけの花」が国民的に受け入れられたのも、そのメッセージ以上に、スキップのように跳ねるリズムによるところが大きい。口ずさめなければ、意味も入ってこないからだ。  さらに、詞の内容も明晰だ。もちろん、様々な深読みや解釈が可能な表現であることは言うまでもないが、それでも初読で文脈の理解のできない箇所はほとんどない。それは、最初の逮捕前に発表された「Hungry Spider」も同様だ。  男女の恋愛をクモの巣にかかる蝶にたとえた不穏な設定ゆえに、覚醒剤の影響を疑う声があがったいわくつきの楽曲である。だが、その語り口は、理性的でユーザーフレンドリーな分かりやすさに満ちている。いわば、絵本の読み聞かせのような音楽なのだ。繰り返しになるが、ここには<君の黄色い鉄道>のような表現は一切登場しない。
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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