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田尾安志、楽天初代監督オファーに「地獄に落とさないで」…それでも引き受けたワケ

在籍した9年間を振り返る

田尾安志

’05年の開幕戦、ロッテ相手に球団初勝利を挙げ、スタンドのファンに手を振る監督の田尾(左)とオーナーの三木谷(右)

 とにかく、田尾は理不尽なことには徹底して立ち向かい、筋を通す性格だった。そのせいか、現役時代にフロントと衝突することも少なくなかった。田尾が中日の選手会長になって選手側の要求を臆せず言うようになると、’85年1月の自主トレ中に西武へトレードに出された。 「当時の代表とは合わなかったんですよね。名古屋球場の駐車場やロッカーの改築など、細かいことまで選手会長として進言していました。あまりに言いすぎるから、出されちゃいましたね」  あっけらかんとそう振り返るが、9年間在籍した中日では、爽やかなルックスに加えリーグを代表する巧打者で押しも押されもせぬ全国区のスター選手だった。トレードで出される直近の3年間はすべてシーズン最多安打を放ち、計501安打。田尾以降で3年連続最多安打を放っているのは、イチローと秋山翔吾(レッズ)の2人しかいない。中日ファンなら、誰もが一度は思ったものだ。 「もし田尾がずっと中日にいたら、楽に2000本は打てただろうに……」。

監督とオーナーの間に生じ始めるズレ

 話を楽天時代に戻そう。田尾はフロント陣の印象をこう述懐する。 「彼らはまだ40代そこそこで、お金儲けは上手なんでしょうけど若造感はありましたよ。オーナーといっても『球団の半分はファンのものだ』という気持ちを持たないと、進むべき方向とは違う方向へ行ってしまう可能性が高い。若いオーナーだし、お金を出しているから色々と言いたくなる気持ちもわかる。でも僕はまず、オーナーにビジネスとしてだけでなく野球を好きになってほしかった。だから、何かあれば直接言ってほしいとオーナーには言っていたんです。でも、彼から直接連絡がくることはありませんでした」  楽天グループの創業者であり、東北楽天ゴールデンイーグルスの会長兼オーナーでもある三木谷浩史とは、シーズン途中まで良好な関係を築き上げていた。しかし、チームの負けが込んでくると監督・田尾とオーナー・三木谷にズレが生じ始める――。 【田尾安志】 ’54年、大阪府出身。同志社大学を経て’75年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団すると、俊足巧打のリードオフマンとして新人王を獲得。’82年には打率.350を記録し、同年から3年連続最多安打に。’85年に西武、’87年に阪神に移籍し、’91年限りで引退 取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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