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「相手が嫌がる言い方」をやめようとしない人々の傲慢な精神世界とは

「相手の嫌がることをしない」というシンプルなことができないのは何故か

 一体なぜ、あんなことが許されていたんだろう。なぜ、「嫌なことをいうことをやめられない」んだろう。なぜ母の「やめて」という声は聞き届けられなかったんだろう。  多くのモラハラ・DV加害者は「やめてほしい」と言われてもやめません。やめてほしいと言われた時には「そのように感じることが間違っている」「実際にお前が悪いのだから仕方ない」「やめてほしいのはこっちの方だ」「論理的に説明しろ」といった風に攻撃によって返します。  でも、相手がやめてほしいと思うことをできる範囲で控えることに、「相手が嫌だと思っていること」以上の理由が必要なんでしょうか。今回の例で言うと、どうしても嫌味を言いたいんでしょうか。どうしても冷蔵庫の整頓に文句をつけたいのでしょうか。一体なぜ? それほどの理由があるなんて、どうしても思えないのです。  にもかかわらず、僕自身も同じような加害をする人間になっていました。妻が机のうえにたくさんのもの(僕から見て)乱雑に置いているとき、玄関にたくさん靴が出ているとき、僕はあくまで茶化しているつもりで、コミュニケーションの一環のつもりでネタにして笑っていました。  妻はそれを言われることが嫌だと言っているのに、妻が下のほうにある本を取ろうとして苦戦しているのをみると馬鹿にしたように笑い、妻がそこからレシートや何かを探しているのを見ては笑い……、書いていて、本当に嫌になります。最悪のコミュニケーションでした。  彼女は普段は適当に受け流していましたが、時には急に真顔になり、口も聞かずに机の物や靴を片付け、そのまま無表情になってしまうことがありました。僕はそれを「なんだ、急に不機嫌になって! 本当のことなのに……」などと思っていました。

相手の「NO」から学ぶべき点はたくさんある

 自分がDV加害者であると真に自覚したとき、ぼくは日常の中でどれほど彼女を傷つけていたのかに気づきました。ちょっとした言動、ちょっとした反応、相手を馬鹿にして、何かを「正してやろう」とアドバイスに見せかけたジャッジを繰り返していたことに気づきました。  彼女がバッグの中のものを探していたら、立ち止まり、バッグを支えて彼女が両手を使って探せるようにしたら良い。靴が多くて邪魔だったらしまったら良い。机にものがたくさんあったって、自分が使いたいスペースを確保すれば良い。  振り返ればひとつひとつ、加害は日常の中で積み重なっていました。逆に言えば、日常の中でたくさん相手をケアする機会があるということでもありました。  何か言ってしまったと思ったときには「ごめん、今のは傷つく言い方だったかな?」と確認し、そうであった場合には「どうしたらよかったかな?」と尋ね、その意見を否定せず次の機会に試し、少しずつ、少しずつ、相手を傷つけない、変えようとしない言動をいまも学び続けています。  加害者の多くは「Noから学ぶ」ことができないように思います。それは「傷つくことを許さない」ということです。でも、人は傷つく。そこに正しさであるとか事実であるといったことは、全く関係がない。大切な人が傷つくなら、その人と幸せに生きていきたいのならば、変わるべきは自分であって、傷ついてしまう「相手」ではない。  家族のコミュニケーションの中に謝罪や反省がないところで育つと、「Noから学ぶ」能力があまり発達しないで大人になってしまうのだと思います。でも、愛する人と向き合い、相手をケアしたいと心から願ったとき、たとえ下手くそでも、ぎこちなくとも、それを始めることはいつからでもできると信じています。
DV・モラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッター:えいなか

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人間関係は“ことば”で決まる

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