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落合博満が選手会を脱退した日——同級生の田尾、中畑が語るFA制度誕生の裏側

“昭和28年生まれ”という共通点

 人間、3人集まれば諍いが起こると言われる。組織に属していれば、喧々諤々の言い争いやいがみ合いが生じるのは当然のことだ。華々しく見えるプロ野球界においても同様。選手同士、監督と選手、コーチと選手、フロントと選手……90年近い歴史の中で、数々の“確執”が取り沙汰されてきた。  なかでも、’05年シーズンに東北楽天ゴールデンイーグスの初代監督を務めた田尾安志の1年限りでの解任劇は、17年経った今でも語り草となっている。先月発売された『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社刊)では解任劇の真相を描いているが、田尾のキャリア、人物像を深掘りするなかで中畑清にも話を聞いている。田尾と中畑は同級生であり、“28会(にっぱちかい)”という1953年(昭和28年)度に出生したプロ野球選手たちの親睦団体の仲間だからだ。

『確執と信念』では本人のみならず、田尾をよく知る人物たちを徹底取材。田尾が持つ”信念”、これまで囁かれてきた”確執”の真相に迫っている

選手会会長の中畑を“28会”がサポート

 28会のメンバーは、中畑清、真弓明信、梨田昌孝、落合博満、羽田耕一、吹石徳一、若菜嘉晴、藤瀬史朗、定岡智秋、庄司智久、岡義朗、大町定夫など、のちに監督、コーチになってプロ野球界に貢献した面々の名が並ぶ。昭和28年生まれはいわゆる“豊作”の年だったのだ。  ’85年、中畑清がプロ野球選手会会長として選手側の権利の拡張を求めてNPB側と闘っているときも、この28会が全面協力して中畑を支援した。このとき、選手会側が最も強く求めたのは、FA権の導入だった。中畑は当時を振り返り、こう述懐する。 「85年11月に選手会が労働組合として認定され、翌年から機構側と労使交渉が始まった。選手会長として、むしろこういうときだからこそ野球を頑張らなきゃと思ったけど、背負っているものは大きすぎて、正直野球に集中できなかったね……。春季キャンプ中も、副会長だった近鉄の梨田と休日にお互いのキャンプ地の中間地点で落ち合って、いろいろと協議していたからね」

「なぜかあの落合だったからな」

 NPB機構側は、当時の西武ライオンズ球団代表の坂井保之を座長とし、福祉委員のメンバー5人を選出。福祉委員というのは、各企業の社長職を歴任した後にヘッドハンティングされて球団代表職に就いた強者ばかりで、そんな海千山千の猛者を相手に、中畑は交渉に当たり続けた。 「とにかく猛勉強したね」。中畑はそう懐かしそうに語る。後に有名企業の経営者が自叙伝の中で「中畑はうちのグループの子会社ぐらいなら明日から社長が務まる」「将来は我社の幹部候補」と、書かれるほど交渉の席で中畑は高評価を得ていた。 「機構と交渉するために弁護士とも相談したけど、28会のみんながよく手伝ってくれたよ。本当に感謝している。みんなの尽力があってようやくFA制度ができたんだ。でも、一番最初にFA権を行使したのが、なぜかあの落合だったからな」 ……なぜか落合。  無論、落合とは落合博満のことを指す。’93年、当時中日に在籍していた落合が日本プロ野球界で初めてFA権を行使したことを覚えている人は多いだろう。だが、中畑はその行使に“なぜか”という前置詞をつけた。実は、落合も昭和28年生まれのひとり。中畑や田尾とは、28会の仲間なのだ。いや、“だった”と言ったほうが適切か……。
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「落合は監督になったから……」
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