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失明、骨折の凄惨決着…アントニオ猪木「壮絶すぎたガチンコ試合」の舞台裏

「バキバキ」という嫌な音がして外れた肩関節

 そして運命の3ラウンド。猪木はペールワンの腕を取り、ダブル・リストロックを極めた。だがペールワンはギブアップしない。猪木は腕を極めながらレフェリーに「止めろ!」と要請したが、それでも止めてくれない。こうなったら腕を折るしかない。猪木はそう判断すると、腕に力を込めた。「バキバキ」という嫌な音がして、ペールワンの肩関節は完全に外れた。試合続行不可能となり、勝利した猪木は「折ったぞー!」と叫んでいた。  この試合は3本勝負だったが、ペールワンの腕が壊れたため、2本目以降は行われなかった。肩を押さえてうずくまるペールワンと泣きわめくセコンドの一族。猪木の一方的な強さとペールワンの我慢強さが浮き彫りになった試合だった。  猪木に屈辱の大敗を喫したペールワンは猪木戦で片目を失明し、引退。その後、パキスタンで有名な格闘ファミリーだった「ボル・ブラザーズ」の兄弟たちは次々とこの世を去っていった。試合中の事故で亡くなる者、ヘロイン中毒で亡くなる者。そしてペールワンも1987年に糖尿病により46歳の若さで逝去している。そして現在、パキスタンのプロレス界はほぼ壊滅しているという。

勝ったら最後、殺されかねない雰囲気

 後年、猪木はペールワン戦についてこのように振り返っている。 「モハメド・アリ戦を一番高く評価してくれたのが実はパキスタンの興行主だったんです。『是非、我が国で試合をやってくれ』と。当時としてギャラを2000万円くらいかな。それを試合前に持ってきてくれたので、『喜んでいこう』となったわけです(笑)。ところが行ってみて、事の重大さに気がついた。ルールなしの試合だというわけです。こちらは負けるとは思っていないけど、向こうは弟子だけで何万人もいて、そのうちの精鋭部隊の何十人かがリングを取り巻いている。それこそ勝ったら最後、殺されかねない雰囲気でした」 「ペールワンというのは、パキスタンでは、『偉大なる男』という意味で、いわば相撲の横綱のようなもの。彼らは一族の名誉にかけて、負けは許されないんです。案の定、身体には油が塗ってありました。腕も足も取らせないという作戦です。結果的に腕を折ることになるわけですが、ギブアップ寸前までいってるのに、ヤツは『参った!』を言わないんだ。こっちからすれば、『じゃあ、どうすればいいの?』という感じですよ。ヤツはリングで死ぬつもりですからね。こっちとしては、どうしようもない」(柳澤健『完本 1976年のアントニオ猪木』文春文庫)
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その後、パキスタンで猪木は…
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プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』(Twitterアカウント:@jumpwith44

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