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「お笑いの舞台で救われた」“ムード歌謡の貴公子”タブレット純が語る、ダメ人間だった時代

抜擢の陰にあった裏事情が発覚

タブレット純――昔から憧れていたマヒナスターズに入れるなんて、まさにシンデレラストーリーのようです。 タブレット:でも、徐々に裏事情がわかりました。当時、マヒナスターズは仲間割れで2つのグループに分裂して、和田弘さん側のグループの人手が足りないから僕に白羽の矢が立った。カラオケ教室のおばさまたちが僕を推してくださったそうです。  加入直後から「和田弘とマヒナスターズ」としての活動が始まったのですが、舞台上でヤジが飛ぶことも多々。和田弘さん以外のボーカルメンバーが抜けていたので、実力が伴わなかったんですね。なので、次第に仕事も減っていきました。  そんな最中に、和田さんが亡くなられてしまい……。お葬式の日に、2つのグループの対立が解消され、僕の存在は「なかったこと」になったんです。

酒浸りの日々「世捨て人のようだった」

タブレット純――それは悲しいですね。どのように歌手活動を続けられたのですか。 タブレット:マヒナスターズに加入していた頃から、地元の相模原のスナックでお客さんから呼ばれたら歌っていました。仕事がなくなってからは、スナックの店番をしながら昼カラオケで歌って飲んで……という生活をして、何とか生き延びることができました。朝から晩まで酒を飲み、世捨て人のような感じでしたが。 ――その後、上京したきっかけは? タブレット:雑誌『SWITCH』(スイッチ・パブリッシング)に「昭和歌謡を歌う若者」として取り上げられ、同世代の歌手の渚ようこさんと知り合いました。僕のボロボロな様子を見て、「相模原でアル中みたいになってないで、東京出てきなさいよ」と誘ってくださったんです。そこで、急に目覚めて中野のアパートに引っ越しました。  東京では、ライブハウス回りをするようになり、ステージに登場してただ失神するだけ……といった奇抜なパフォーマンスでサブカル系のイベントにも呼ばれました。その流れで浅草東洋館からお声がかかり、歌手として出演することに。その後、浅草東洋館の支配人が芸人の名簿を持って失踪したことから、後任の方に「人手が足りないから、できるだけ出演してほしい」と言われたんです。  当初は歌だけ歌っていましたが、他の出演者を見て、僕もお笑いの要素を取り入れてみようと思いました。そこで昔、海苔弁当に入っている白身魚(メルルーサ)を見て作った「愛しのメルルーサ」という曲を披露したんです。それが意外にもお客さんにウケて。歌とお笑いを織り交ぜた“ムード歌謡漫談”というスタイルが徐々に出来上がりました。
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「ありのままの自分」でお笑いの才能開花
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大阪府出身。外資系金融機関で広報業務に従事した後に、フリーのライター・編集者として独立。マネー分野を得意としながらも、ライフやエンタメなど幅広く執筆中。ファイナンシャルプランナー(AFP)。X(旧Twitter):@COstyle

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