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福留孝介、45歳まで現役を続けられたのは「アメリカ野球を経験したから」5年間の苦悩も赤裸々告白

「もっと若い頃に…」35歳で経験したマイナー生活

サムライの言球

福留孝介氏

渡米5年目の’12年7月、福留はヤンキースとマイナー契約を結んだ。3A・スクラントンでのプレーは、すでに35歳になっていた福留にとって、何から何まで初めて経験することばかりだった。 「10時間以上のバス移動も経験しました。飛行機はもちろんチャーター機ではなく、試合直前に球場入りすることもありました。彼らはみんなハングリーで同じ国出身のメジャーリーガーから道具をもらってプレーしていました。あのときの経験は二度としたくはないけど、もちろん挫折だとも思っていません。もっと若い頃にあの経験をしたかった。そんな思いが強いですね」 日本でトップスターだった福留にとって、35歳で経験するマイナー生活は、単なる「選手として」ではなく、「一人の人間として」はとても貴重な経験となったという。 「若い選手たちはみんな貪欲でした。誰からでも学ぼうとしていました。道具の件もそうだけど、日本では経験することができないことばかりでした。もう少し僕が若ければ、本当にいい経験になったと思います。でも、僕はこのときすでに35歳でした……」 胸の内には「自分はこんなことをするためにここに来たわけではない」という思い。5年間のアメリカ生活も終焉が近づいていた。 「この頃、日本でもう一度チャンスがあるのならばトライしてみたい、という思いが芽生えてきました」

45歳まで現役を続けられたのは「アメリカ野球を経験したから」

こうして、翌’13年からの日本球界復帰が決まった。新天地は阪神タイガースだった。以来、福留は’20年までの8年間、さらに’21年からの2年間は古巣のドラゴンズに復帰し、’22年限りで24年間の現役生活にピリオドを打った。 36歳で日本球界復帰を果たしてから、45歳まで現役を続けることができたのは、「アメリカ野球を経験したから」と福留は語る。 「心の中に、まだまだ若い選手には負けない、という思いを強く持っていたこと、マイナーを経験したことで、やめるのはいつでもできる、という思いが芽生えたこと、とことんやってやろう、と強く思えたことが45歳まで続けられた理由だと思います」 アメリカでの日々も、すでに遠い思い出になりつつある。悪戦奮闘した5年間を、福留はどのように振り返るのか? 「まったく知らないものを経験した5年間でした。自分が望まなければ見られなかったものばかりでした。野球選手としてというよりも、人間として他人に感謝できるようになったし、周りが見えるようにしてもらった。そんな5年間だったと思います」 かつての自分にはメジャーリーグへの憧れはなく、自然な流れでアメリカでの生活を選んだ。自分の決断を後悔しているわけではないが、「もしも小さい頃からアメリカを目指していたら……」と考えることもあるという。 後輩たちに対しては「中途半端な思いなら行かないほうがいい」と言いつつ、「強い憧れがあるのならば行ったほうがいい」とエールを送る。 「なりたい自分のイメージを強く持っているのならば行ったほうがいい。そこには必ず、何かがあるはずだから……」 【福留孝介】 1977年、鹿児島県生まれ。1999年ドラフト1位で中日に入団。’07年12月カブスへ移籍。’11年7月インディアンス、’12年、ホワイトソックスへ。同年途中ヤンキースとマイナー契約。’13年、阪神、’21年、中日に復帰。’22年、現役引退 撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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