鳥取県内から火が付き、メジャーデビューへ
Megumi(写真右)とManami(写真左)
同様の説得をManami氏についても行い、あくまでプロデビューまでのトライアルとして、インディーズでの活動の許可を得た。インディーズ時代の滑り出しは極めて順調だった。Paix2の強みである、どこか懐かしい曲調に無二の優しい歌声は、あらゆる人を虜にした。
「行政から宣伝しようと思い、
鳥取県庁に行きました。観光課長さんに音源を聴いてもらうと、
『これは爽やかなイメージだね、山陰にぴったりだ。応援しよう』と言ってくださいました。実際に、県をあげてさまざまな盛り上げをしていただいたと思います。県内の人気番組にも出演し、県庁で記者会見をさせていただく運びになりました。そのとき、学校などの教育機関を念頭に、さまざまな施設を巡ってみようと思い立ちました」
伸びやかで誠実な歌声は県内さまざまな人の間で話題となり、およそ1年間で目標としていたCDの売上を超えた。そうなれば見えてくるのはメジャーデビューだ。
「ある大手新聞の夕刊一面に載ったことで知名度はさらに上がり、
日本コロムビアと契約することができました」
夢のメジャーデビューを前にしたある日、片山氏が今でも反芻する言葉がある。
「妻に言われた言葉は未だに覚えています。妻は私に、
『よそのお嬢さんをお預かりして、無責任に途中で放りだしたら、私はあなたを一生軽蔑するよ』と言ったんです。ちょうど私の娘と同じ世代ですから相当心配だったんでしょうね。
ご承知の通り、芸能界で“食っていく”のは並大抵ではありません。Paix2もメジャーデビュー以降、鳴かず飛ばずの時期が長く続きました。必ずしも状況がよくないとき、妻の言葉は私にとっていつも立ち返る原点でした」
インディーズ時代に刑務所を2回ほど慰問したというPaix2だが、プリズンコンサートを活動の中心に据えたのは、他でもない片山氏だ。その背景には、若き日の経験があるという。
「私は日本電信電話公社(現:NTT)に勤務する父と結婚前には教師をしていた母のもとに長男として産まれました。父の仕事の関係で、小学生のころは何度も岡山県内を引っ越しを経験しました。父は出張のやたら多い人で、給料が入っても家には入れずに全部自分で使ってしまうタイプ。
いわゆる〈飲む、買う、打つ〉といった3拍子揃った人だったんです。あとで聞いた話では、“出張先”に複数の女性がいたようです。
6人兄弟の一番上だったこともあって、中学生くらいになると家計を助けるために牛乳配達や新聞配達をしていました。
同時に、結構やんちゃもしました。貧しかったことで相当プライドが傷つくことが多かったですからね。近所のお母さんから
『片山くんと遊んではいけん』と言われた子もいたみたいです(笑)。家で食事ができなくても、小学生の時には学校に行けば給食がありましたので、
自分はおかずだけ食べて小さな妹たちに給食で出されたパンを持ち帰って食べさせたことも珍しくなかったです。近所の仲の良い友達とスズメを捕まえて焼き鳥にしたり川で魚を捕まえたり、畑の作物の収穫後の残り物を拾ってきたり、野草を取りに行ったり、とにかく食べれるものを探しに行くことが日常。赤貧を洗うがごとしの貧しい生活でした。
母が歯を食いしばって子供たちのために頑張っている姿が今でも目に焼き付いて離れません。私たち兄弟がその時代を生き抜いて来ることができたのは、貧しくても行儀作法には厳しかった母のおかげです。
振り返ってみればあの頃の思い出は苦しくても大切な事がたくさんありましたね」
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:
@kuroshimaaki
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