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「平安京への遷都(794年)」の理由は“怨霊”だった…学生時代に習った日本史は間違っている?

藤原道長も怨霊の犠牲者だった!?

『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』 摂関政治の全盛期を築いた藤原道長も怨霊に苦しんだとか。 「権力を握ってからたびたび胸に激痛を覚えるようになるが、道長は、これは自分が蹴落とした貴族たちの怨霊だと信じました。とくに藤原延子(えんし)の仕業ではないかと疑ったのです。  延子は、三条天皇の東宮(皇太子)である小一条院敦明(あつあきら)親王の妻だったが、敦明は道長によってその地位を降ろされました。延子が三人の皇子や皇女を産んでいたので、敦明が即位すると、延子の父・左大臣藤原顕光が外戚として権力をにぎると危惧したのです。  ただ、道長は政争の犠牲になった敦明親王を憐れみ、自分の娘・寛子(かんし)を彼に嫁がせました」

延子の霊が寛子に乗り移って……

 すると敦明は寛子に夢中になり、延子のもとを訪れなくなったという。 「このため延子は道長を憎悪したまま亡くなったのです。だから道長は病を癒やすため、剃髪して延子らの霊を慰めました。  けれども1025年7月、娘の寛子が拒食症によって死んでしまいます。道長が見舞ったさい寛子は『お前の敦明親王への措置はひどい! その恨みで私が死ななくてはならなかったことは悔しい!』と叫んだそうです。  それは、延子の霊が寛子に乗り移ったのだと。それから一月も経たない8月5日、今度は娘の嬉子(きし)が死んでしまいます。二年後には息子の顕信(あきのぶ)が急死、同年の9月には娘で皇太后の妍子(けんし)も病死しました。道長はこれにショックを覚え、同年12月に亡くなってしまったのです」
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日本最大の怨霊、崇徳上皇の壮絶な最期
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歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。

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