戦後のアメリカ・プロレス界で“悪玉日本人”を演じた日系人たち
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
ひょっとしたら、いまどきのプロレスファンは“日系レスラー”という単語そのものを知らないかもしれない。日系――日本から見れば日本人の血をひくアメリカ人で、アメリカから見ればフツーのジャパニーズ――レスラーは、いまから60年、70年ほどまえのアメリカのプロレス・シーンには欠かすことのできない悪役キャラクターだった。
だいたいの場合において、空手か柔道あるいは柔術の達人ということになっていて、必殺技は神秘的とされる空手チョップかスリーパーホールドかケイ動脈クロー。反則技のレパートリーは、対戦相手の目に塩をすりこむ“塩攻撃”、ゲタ攻撃、背後からの急所打ち、柔道着や着物の帯を使ったチョーク攻撃など。
定番のリングコスチュームは和服や柔道着で、タイツは着用するが、基本的にはリングシューズははかず、試合をするときは素足。パールハーバーPearl Harborという単語が“奇襲攻撃を仕掛ける”という意味の動詞として使われていた。
怪しいマーシャルアーツを使い、レフェリーの目を盗んでは反則攻撃の限りをつくし、反則がバレると卑屈な笑みを浮かべて対戦相手とレフェリーと観客に向かって深ぶかとお辞儀をするといったボディー・ランゲージの数かずは、アメリカと日本が仲が悪かった時代にアメリカ人がイメージしていたところのいわゆる「ジャップ」。ジャパニーズ・ピープルのステレオタイプ――固定観念、先入観、紋切り型、決まり文句、型にはまった画一的なイメージ――だった。
いわゆるジャパニーズ・ヒールが“時代の子”としてプロレスのリングに登場してきたのは第二次世界大戦前後の1940年代前半から1950年代にかけてだが、じっさいにそれを演じていたのは日本からアメリカに渡った日本人レスラーではなくて、ほとんどのケースにおいて日系二世、日系三世のジャパニーズ・アメリカンだった。
50年代に活躍したオーヤマ・カトーOyama Katoとグレート・トーア・ヤマトGreat Tor Yamatoのふたりは――これまで日本のプロレス・マスコミにはあまり紹介されることはなかったが――いわゆるメイド・イン・USAの典型的なジャパニース・バッドガイということになる。
“大山”も“加藤”も日本人の名字としては平凡な部類に入るが、ふたつのラストネームをくっつけてエキゾチックなエスニック系キャラクターに仕立て上げてしまうという発想はアメリカ人のセンスなのだろう。ちなみにカトーのアメリカ式の発音はケートーだ。
オーヤマ・カトーは1919年、ハワイ生まれの日系二世で、本名はシンイチ・スタンリー・マエシロ。戦後の40年代後半、7人の子どもたちとともにハワイからカリフォルニアに移住し、プロレスラーとなった。デビュー当時は、戦前にアメリカで活躍した日本人俳優の早川雪州にちなんでセッシュー・オーヤマを名乗っていたという。
日系二世のオーヤマ・カトーはもちろん英語と日本語のバイリンガルだったが、プロレスのリングでは“英語がわからない日本人”を演じた。戦後、アメリカで活躍したジャパニーズ・ヒールの大物といえば、日本のプロレス史にも深くかかわったグレート東郷とハロルド坂田(トシ東郷)があまりにも有名だが、オーヤマ・カトーは全米各地のプロモーターから東郷の“分身”的なポジションを与えられたレスラーだった。
アメリカの専門誌『ボクシング・アンド・レスリング』が“7人の東郷”というタイトルで東郷、坂田、ミスター・モト、キンジ・シブヤ、デューク・ケオムカ、オーヤマ・カトー、そしてトーア・ヤマトの7人の日系レスラーの特集記事を掲載したことがあった。
作家でプロレスファンとしても知られる村松友視さんが80年代にこの“7人の東郷”をモチーフに『7人のトーゴー』というタイトルで、戦後、アメリカで活躍した日系レスラーたちのその後の消息を描いた短編小説集を発表したが、オーヤマ・カトーとトーア・ヤマトのふたりに関してはこれまでくわしいプロフィルが不詳のままだった。
昭和40年代に出版された『プロレス・ニッポン世界をゆく』(恒文社=1971年)という本の第4章“近代プロレス史上の英雄たち”には、戦前から戦後にかけてアメリカで活躍した日本人柔道家、日系レスラー、日本人レスラーたちのことがくわしく紹介されている。作者はプロレス・ライターの草分け的存在だった田鶴浜弘(たずはま・ひろし)さんで、1905年(明治38年)生まれの田鶴浜さんは66歳のときにこの本を書いた。
同書には「オーヤマ・カトーは、テキサスの試合中に、ドロップ・キックを心臓に強襲されて急死したという」(原文のまま)という記述があるが、最近の研究では1961年1月9日、カナダ・バンクーバーでの試合後、宿泊先のホテルで心臓発作のため死去したことが判明した。42歳の若さだった。
もうひとりのナゾの日系レスラー、トーア・ヤマト(本名トヨキ・ウエダ)は、当時としてはめずらしかった女性マネジャーの――じつはヤマトの妻だった――“ハナコ”というアメリカ人女性にホテルの自室で射殺された。まさに小説よりも奇なりな最期だった。
身長5フィート8インチ(約172センチ)、体重218ポンド(約98キロ)といったごくかんたんなデータ、ハワイ生まれの日系二世らしいということ以外、くわしいプロフィルはわかっていないが、ユーチューブにアップされている50年代前半のプロレス番組“レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン”(ドゥモン・ネットワークTV)のモノクロの映像のなかにトーア・ヤマトの試合シーンをいくつか発見できる。
有名なパブリシティ写真では、向かって左側に和服を着たトーア・ヤマトが立っていて、右側にはマネジャーのハナコサンが三つ指をついて正座している。ふたりは平等で対等な立場の夫婦ではなくて、あくまでもマスター(家長)とサーバント(使用人)の関係。“封建社会”“家長制度”“男尊女卑”というアメリカ人が考えるところの日本と日本人のステレオタイプがプロレスのリングに描かれていた。
トーア・ヤマトは全米ツアー中だった1960年、ホテルの自室でハナコサンに射殺された。『プロレス・ニッポン世界をゆく』にはトーア・ヤマトに関するこんな記述が載っている。
《日系のゴージャス・ジョージといわれた華麗な美男悪玉グレート・トーア・ヤマト。》
《彼は、白人のグラマー娘をすそ模様にお太鼓の帯、頭を花カンザシで飾り、その名が“花子さん”――その美しい侍女を帯同してマットに登った》
《いかにも女出入りが絶えなかった美男悪玉らしい死に方だった。(中略)オハマのホテルの自室で、深夜、例の“花子さん”にピストルで心臓をうち抜かれて昇天した》
《ホテルの支配人がかけつけたとき、心臓から吹き出す鮮血にまみれたヤマトの死骸に、日本の長じゅばん姿で、ピストル片手の“花子さん”が取りすがり、狂ったように泣きわめいていたそうだ》(原文のまま)
当時の新聞記事によれば、この事件は殺人事件ではなく拳銃の“暴発事故”として処理され、ハナコサンは無罪になったという。
『プロレス・ニッポン世界をゆく』には1962年(昭和37年)の夏、ロサンゼルスで“7人の東郷”のうちのグレート東郷、ミスター・モト、キンジ・シブヤの3人が顔をそろえ、筆者の田鶴浜さんといっしょに戦後のアメリカのプロレス界での苦労話を語り合うというシーンがある。
《『花子は――生命がけで惚れていたのよ…女のジェラシー一番こわいね』。そういってシブヤが首をすくめて見せた》(原文のまま)
どうやら、シブヤは“トーア・ヤマト事件”のディテールを知っているようだった。
1962年当時、アメリカのメイン・サーキットで武者修行中だったジャイアント馬場について,田鶴浜さんが「東部で人気売り出し――2メートルを越す超巨体、怪異ムードのカラーが人気の正体であった」と分析すると、東郷とモトとシブヤは「時代が変わったんだ」と口をそろえた。
馬場とこの3人の日系レスラーたちとの根本的なちがいは、馬場が日本からアメリカに渡った日本生まれの日本人アスリートであったのに対し、東郷らはアメリカ生まれの日系アメリカ人であったにもかかわらず、その事実をあえて隠し、アメリカの観客向けに“悪いジャパニーズ”を演じた点である。
“7人の東郷”がモチーフとなったジャパニーズ・ヒールのイメージは70年代前半あたりまでつづき、東郷をはじめとする“戦中派”が第一線を退いたあとは、トージョー・ヤマモト、ドクター・モト(キラー・トーア・カマタ)、プロフェッサー・タナカ、ミスター・フジといった東郷らよりもひと世代若い日系レスラーたち――カマタはポリネシアン、タナカはフィリピン系だった――、あるいはアメリカに長期滞在した上田馬之助、グレート小鹿、マサ斎藤、ミスター・ヒト(安達勝治)あたりの世代までの日本人レスラーたちが古典的な“悪いジャパニーズ”のキャラクターを踏襲した。
70年代後半から80年代以降、アメリカのリングを主戦場としたジャパニーズ・ヒールのイメージはザ・グレート・カブキ、ケンドー・ナガサキ、ザ・グレート・ムタ(武藤敬司)らに代表されるフィクションあるいはファンタジーとしての東洋的ビジュアルへとシフトチェンジされた。キラー・カーン(小沢正志)のように、日本人ではなく“ナゾの蒙古人”を演じた例もある。
田吾作タイツと下駄ばきが定番のコスチュームで、リング上にお清めの塩をまき、レフェリーの目を盗んでは反則の限りをつくし、反則がバレると卑屈な笑みを浮かべながら深ぶかとお辞儀をして許しを請い、最後はベビーフェース=白人レスラーにこてんぱんにやられるといったステレオタイプなジャパニーズ・ヒールはすっかり時代遅れとなり、これといった存在理由がなくなったため絶滅した。
いまのアメリカのプロレスファンは、プロレスというジャンルにかつてのような社会的なナラティブ――つまり政治プロパガンダ――を求めていないのである。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第56回
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