「昔すごくブサイクな女のコに囲まれてうれしそうにしている人がいるなと思ってみたら嘉門達夫さんだった(笑)」越前屋俵太
80年代、類を見ない切り口でテレビ業界に新風を吹かした越前屋俵太(55)。常識はずれの演出で注目を集め、自身もタレントとして活躍の場を広げていった越前屋氏のバブル前夜の記憶とは? ユニークな発想と多彩な才能で時代を駆け抜けた寵児が今、改めて振り返る!
――当時の遊び場として、印象に残っているのは?
越前屋:大阪はマハラジャが全盛で、テレビに出るようになってからは、顔パスで入って、よく遊んでました。東京から村上里佳子ちゃんとかもよく来てましたね。ディスコには必ずVIPルームといわれる芸能人やお金持ちしか入れない特別室があって、ガラス張りで中が見えるようになってました。今、思うと見せ物みたいでとても恥ずかしいんですけど、当時はみんなVIPルームに入りたくて必死でした。ディスコに行くと真っ先にVIPルームに有名人が来てないかどうかチェックしてました。
あるとき、すごくブサイクな女のコに囲まれてうれしそうにしている人がいるなと思ってみたら、嘉門達夫さんだった(笑)。まだ若手だったころのダウンタウンの松本(人志)君と今田(耕司)君が向こうから挨拶に来てくれたりとか、本当にあのころはみんなディスコにいたんですよ。毎晩、いつもキレイな本気モデルのお姉さんを連れてくる人がいました。その人もモデルっぽくて、おしゃれで、いつも斜め45度上を見て歩いてるような人でしたが、ある日テレビを見てたら、彼が出ててビックリ。あのウォーキングのデューク更家さんでした。
――そのころの大阪の街の雰囲気は、今と違いますか?
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越前屋:当時は、なんか大阪の南は二分されていたような気がします。アルマーニ、ベルサーチ、ジャンフランコフェレ、俗にいうイタリアンカジュアルに身をつつんでマハラジャのVIPルームにいる人たち、デザイナーズブランドの山本耀司の「Y’s」とか、川久保玲の「コムデギャルソン」に身をつつんで、「葡萄屋」っていうディスコにいる人たち。葡萄屋では、ショーケンの「ぐでんぐでん」でみんな踊って、文字どおり全員ぐでんぐでんになってました。
ディスコで朝まで遊んで、そのまま神戸の須磨浦海岸まで行って、ビーチで焼いてましたね。そこに行けば、必ずいい女がいた(笑)。大阪のディスコで遊んでいても、京都のディスコが美しいって聞くとそっちに行くし、またそこで、神戸のディスコにかわいいコがいるって聞くと、そっちにも行くし。もう深夜の三都物語でした。で、朝は須磨。当時の僕らの必殺ゴールデンパターンでした。
――関西出身の越前屋さんにとっての80年代の印象的な記憶はなんですか?
越前屋:1980年は僕が関西大学に入学した年で、1983年には、まだ大学生であったにもかかわらず、すでにテレビに出てました。道端で出会い頭にシャンプーしたり、たまたま見つけたモヒカンの兄ちゃんの頭で書道したりとか、もうメチャクチャしてました。
どっちかといえば、テレビデビューする前の方がよく遊んでましたね。当然おカネもなかったんで、ディスコのなかに入らずに店の前で女のコを出待ちしてナンパをしてました。ストリートファイター系でしたね。だからデートはしてなかったです。だってそれ以前の問題で苦戦していましたから(笑)。
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大阪府生まれ。年齢非公開。関西大学経済学部卒業後、大手画材屋勤務を経てフリーランスに。エロからファッション・学年誌・音楽&美術評論・人工衛星・AI、さらには漫画原作…まで、記名・無記名、紙・ネットを問わず、偏った幅広さを持ち味としながら、草野球をこよなく愛し、年間80試合以上に出場するライター兼コラムニスト&イラストレーターであり、「ネットニュースパトローラー(NNP)」の肩書きも併せ持つ。『「モテ」と「非モテ」の脳科学~おじさんの恋はなぜ報われないのか~』(ワニブックスPLUS新書)ほか、著書は覆面のものを含めると50冊を超える。保有資格は「HSP(ハイリー・センシテブ・パーソンズ)カウンセラー」「温泉マイスター」「合コンマスター」など
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