今も続く『ベストヒットUSA』は80年代青春男の音楽のカンニングペーパーだった
10~20代で1980年を迎えた若者の「カッコイイ」は、すべてが洋モノ――。より狭義には「アメリカ」だったといっても過言ではない。また、そんな風潮をもっとも顕著なかたちで象徴していたのが音楽であり、その「媒介役」とも呼べる伝説のミュージックビデオ番組こそ、ほかでもない『ベストヒットUSA』である。
スタートは1981年の4月。何度か放送時間や放送局を変え、現在でもBS朝日でオンエアされている。VJ(司会)は、初回からずーっと小林克也。アメリカで人気のポップスやロックにスポットをあて、最新のヒットチャートや注目の曲を、プロモーションビデオを交えて紹介し、深夜の時間帯にもかかわらず、高い視聴率をはじき出していたという。
お茶の間で「海外アーティストが動く姿」をじっくりと鑑賞できる、当時では画期的な試みで、これをきっかけに洋楽ファンに転向した若者も数知れずだったのではなかろうか。『なんとなく、クリスタル』がミリオンセラーとなり、その「カタカナ崇拝」の影響もあって、まだ根強い支持を受けていた演歌やフォークの世界観、極論すれば「日本語の歌詞」自体が全否定されはじめていた時代。アメリカから降りてくる洋楽は、まさに即席で「カッコイイ」を演出できる格好のツールであった。ただでさえ語学習得能力が低いとされている日本人が30年前、「英語」に抱いていたコンプレックスと憧憬の念も半端ではなかった。
もちろん、「洋楽のカッコイイ」に取り憑かれていたのは買い手側、リスナーだけじゃない。売り手側も同様だ。レコード会社はアメリカの音源を、右から左へと並行輸入するのに大わらわ。国内のアーティストは歌詞中の横文字比率を増やしていったり、ユーミンや山下達郎に倣って歌詞を視覚化し、“必要以上の意味”を含ませないよう工夫をしたり、あるいはYMOのように、いっそインストゥルメンタルとしてバッサリと楽曲から歌詞を省いてみたり……と、さまざまな試行錯誤を重ねつつ、「邦楽の洋楽化」を志していった。
そうやって、需給双方の耳もやがてじわじわとアメリカナイズされ、アダルトでオリエンテッド(=志向)なロック、略して「AOR」が、大人の階段をのぼっている真っ最中の世代を直撃し、爆発的な大流行へと至ったわけである。
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大阪府生まれ。年齢非公開。関西大学経済学部卒業後、大手画材屋勤務を経てフリーランスに。エロからファッション・学年誌・音楽&美術評論・人工衛星・AI、さらには漫画原作…まで、記名・無記名、紙・ネットを問わず、偏った幅広さを持ち味としながら、草野球をこよなく愛し、年間80試合以上に出場するライター兼コラムニスト&イラストレーターであり、「ネットニュースパトローラー(NNP)」の肩書きも併せ持つ。『「モテ」と「非モテ」の脳科学~おじさんの恋はなぜ報われないのか~』(ワニブックスPLUS新書)ほか、著書は覆面のものを含めると50冊を超える。保有資格は「HSP(ハイリー・センシテブ・パーソンズ)カウンセラー」「温泉マイスター」「合コンマスター」など
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