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田尾安志、楽天初代監督オファーに「地獄に落とさないで」…それでも引き受けたワケ

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?天才打者と評された男が選んだ、新球団初代監督というポスト。田尾安志のキャリアを形作ってきた信念に迫る。

前途多難と知りながら引き受けた楽天初代監督

田尾安志

田尾安志

 “もし”という接続詞をつけての質問は、勝負師にとってタブーとされている。孤高の鬼才として本連載でも取り上げた門田博光は「“もし”の話はわからん」と一刀両断。他のアスリートも同様の反応が多い。日々結果を追い求めて鍛錬しているのに、“たられば”の話ほど陳腐なものはない。だが、この男だけは“もし”をつけて語らずにはいられない。  田尾安志。中日、西武、阪神の主力打者として活躍しただけでなく、東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた男である。 「今となっては、あの環境がさほど苦にならなかったのが自信ですね。“あの1年”を経て、自分がこんなに図太い人間だったんだと改めて知りましたよ」

監督のオファーに「軽いなぁ」

 現役時代と変わらず、田尾は爽やかに語る。言わずもがな“あの1年”とは楽天の初代監督を務めた’05年のことである。最初は無理にそう繕っているのかと思ったが、時間を重ねて話を聞くごとにこれが田尾の本心だとわかった。  ’04年の秋口に、3年契約で新設球団である楽天の監督に就任。プロ野球界にとって半世紀ぶりの新球団設立ということもあり、’04年オフから翌年の開幕前まで、田尾が取り上げられない日がなかったほどメディアに出まくった。だが、いざ蓋を開けると38勝97敗という成績で断トツの最下位。この責任を問われ、最終戦を待たずして田尾は解任を告げられる。3年契約だったにもかかわらず、わずか1年での解任。これが意味するものとは何か……。 「もともとマーティ(・キーナート、楽天の初代GM)と球団代表の米田(純)さんと食事をしたときに、『球団を持つことになったんですが、どなたか監督としていい人材はいないでしょうか』と相談を受けたのが監督就任のきっかけです。そこからいろんな人の名前を挙げて良い面と悪い面を説明していくと、最終的に『監督やってみませんか?』と。最初から僕にやらせようと思っていたんでしょうけど、“軽いなぁ”というのが率直な感想でした」  その席で田尾は、2人にこう語ったという。
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半世紀ぶりに産声を上げた新球団
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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