『金曜夜8時ゴールデン』がプロレスの時間だった時代――「フミ斎藤のプロレス講座」第26回
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
毎週金曜夜8時のゴールデンタイムが“プロレス中継”の定位置だった時代のことをおぼえているのは、いちばん若くて40代後半以上、リアルタイムでそれを記憶しているのは50代、60代とそれより上の世代の“昭和のテレビ視聴者”だろう。
いまどきの若者、いまどきのネットユーザー層にとってはあまりピンとこないおはなしかもしれないけれど、その昔、プロレスはテレビのキラー・コンテンツだった。衛星放送(BS、CS)もケーブルも、もちろんインターネットの動画配信もなかった時代の“お茶の間のテレビ”である。
日本のプロレス史が“テレビ中継”とともにスタートしたのは1954年(昭和29年)2月29日。力道山&木村政彦対シャープ兄弟(マイク&ベン)の“プロレスリング国際大試合”をNHKと日本テレビが放映したのがはじまりだった。東京・蔵前国技館で開催された2月29日、30日、31日の3日連続興行のうちの初日をNHKと日本テレビが生中継でオンエアし、日本テレビは2日め、3日めも放送した。
NHKは前年2月に、日本テレビは“民放第1号”として前年8月にそれぞれ開局したばかりで、プロレスの夜明けはテレビ時代の夜明けでもあった。当時の資料によれば、テレビ局サイドが日本プロレス協会に支払った1番組あたりの“放映権料”はNHKが25万円、日本テレビが20万円だったとされる。広告収入というコンセプトはまだなかった。
日本で本格的にプロレスがはじまってから最初の5年間――1954年から1958年(昭和33年)までの5年間――、日本プロレスは“プロレスリング国際大試合”と題した1カ月から2カ月ほどの日程のシリーズ興行を年に2回ずつ開催。テレビ中継もビッグマッチを中心とした“特番ワク”での放送だったが、日本テレビは1957年(昭和32年)6月から定期番組『ファイトメン・アワー』(毎週土曜5時)の放映を開始。日本人選手主体のカード編成でプロレス中継番組を初めてレギュラー化した。
『ファイトメン・アワー』は1958年3月でいったん休止となったが、日本テレビは同年8月に“金曜夜8時”のゴールデンタイムで新番組『三菱ダイヤモンド・アワー』の放映をスタート。“プロレス中継”と“ディズニーランド未来の国”の2番組を隔週サイクルで放映するようになった。力道山は同年8月、ロサンゼルスでルー・テーズを下してインターナショナル王座を獲得した。“鉄人”テーズゆかりのチャンピオンベルトはどうやら新番組のために用意された“目玉商品”だった。プロレスとディズニーの不思議な“共存”は1968年(昭和43年)まで約10年間つづいた。
日本プロレスが1年を通じて長期のシリーズ興行を開催するようになったのは日本テレビの“金曜夜8時”がレギュラー番組となった翌年の1959年(昭和34年)からで、同年は春の本場所『ワールド大リーグ戦』第1回大会を含め年間5シリーズを開催した。テレビとの関係――番組の放送スケジュール、テレビ局から支払われる放映権料――がプロレスの興行形態そのものを大きく変化させたことはまぎれもない事実だった。
日本テレビの“金曜夜8時”のプロレス中継は1958年8月から1972年(昭和47年)5月まで約14年間つづいたが、『第14回ワールド大リーグ戦』決勝戦(ジャイアント馬場対ゴリラ・モンスーン、72年5月12日=東京体育館)の生中継を最後に終了。それから3日後の同年5月12日、日本テレビが日本プロレス・サイドの“契約違反”を理由に同番組の放送打ち切りを発表した。日本テレビが長寿番組をあえてブラウン管から消したのは、日本プロレスが“日本テレビ専属契約”だった馬場を同年4月からテレビ朝日(当時はNET)のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』に“出演”させたことが原因だった。
馬場は1972年7月、日本プロレスに辞表を退出して退団。同年9月、全日本プロレス設立を発表し、10月に“旗揚げジャイアント・シリーズ”(全15戦)を開催した。日本テレビは新団体設立準備のためアメリカに渡った馬場を同行取材し、アメリカでの試合映像を“特番”でオンエア。旗揚げシリーズに合わせて毎週土曜夜8時から1時間枠で『全日本プロレス中継』の放送を開始した。日本テレビはソフトもハードも古くなった“日本プロレス”を切り捨てて“馬場の新団体”を選択したのだった。
テレビ朝日は1969年(昭和44年)7月から『ワールドプロレスリング』の番組名でプロレス中継に参入。日本プロレスが日本テレビとテレビ朝日の民放2局で毎週2本のレギュラー番組を放映する――日本テレビとテレビ朝日の両局から放映権料をもらう――という“バブル体制”は約3年間つづいたが、日本テレビがそれまでの定位置だった“金曜夜8時”から撤退すると、テレビ朝日は1972年7月から月曜・金曜の週2回放送シフトを開始し、同年10月の番組改編期に同番組を“金曜夜8時”に一本化。力道山時代からつづくプロレス中継=金曜夜8時のイメージをそっくりそのまま引き継いだ。
1971年(昭和46年)12月に“除名”という形でアントニオ猪木が消え、翌72年7月に馬場が退団したあとの日本プロレスの主力メンバーは坂口征二、大木金太郎、上田馬之助、グレート小鹿、高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)といった顔ぶれだったが、テレビ朝日は坂口グループ(坂口、キラー・カーン、木村健悟ら)の日本プロレス退団―新日本プロレス移籍と同時に日本プロレスとの契約を破棄し、1973年(昭和48年)4月に発足2年めの新日本プロレスと新契約を交わした。団体経営の命綱であったテレビ放映を打ち切られた日本プロレスは、同年4月、興行活動を休止し倒産した。
新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』が“金曜夜8時”のゴールデンタイムで放映されたのは1973年4月から1986年(昭和61年)9月までの13年6カ月間。猪木対ストロング小林、猪木対大木金太郎といった大物日本人対決の時代があり、異種格闘技の時代があった。猪木のライバルはタイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンと年代ごとに新陳代謝していった。80年代前半には藤波辰爾と長州力の“名勝負数え唄”と初代タイガーマスク(佐山サトル)が日本じゅうに大ブームを巻き起こした。
“金曜夜8時”が定位置だった『ワールドプロレスリング』が“月曜夜8時”に移行したのは1986年10月の番組改編期だった。さらに翌1987年(昭和62年)4月の改編期からは放送時間が“火曜夜8時”となり、これと同時に番組名も『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』に変更され、スタジオ・バラエティーとプロレス中継の二元中継というまったく新しいコンセプトが導入された。たびかさなる放映時間の変更、放送内容の大幅な“模様替え”の理由は番組視聴率の低下にあった。
しかし、山田邦子、なぎら健壱らお笑いタレントをMCに起用した“プロレス・バラエティー”にファン、関係者は拒絶反応をみせ、4月以降の番組の平均視聴率は6パーセント台まで急落。テレビ朝日は『ギブUPまで待てない!!』を半年で打ち切り、同年10月5日放映分からは放送時間を再び“月曜夜8時”に戻し、番組内容そのものも実況中継スタイルの『ワールドプロレスリング』に戻した。
『ギブUPまで待てない!!』というちょっと変わった番組タイトルは、1984年(昭和59年)9月の長州グループによる“大量離脱事件”から1985年(昭和60年)の“冬の時代”にかけて『ワールドプロレスリング』の平均視聴率が10パーセント台を割り込み、テレビ朝日の番組編成部が「このままでは番組の存続も危ない。プロレスをなんとかしろ。ギブアップまで待てない」と考えたことからひねり出されたアイディアだったが、“プロレス中継”と“バラエティー番組”の合体というコンセプトは、いわゆるプロレスファンからも一般視聴者層からも完全にそっぽを向かれた。
『ワールドプロレスリング』の放送時間はその後、1988年(昭和63年)4月に“土曜午後4時”に移行し、それからさらに6年後の1994年(平成6年)4月に“土曜深夜の30分番組”にシフトチェンジし、現在に至っている。日本テレビの『全日本プロレス中継』も1988年4月に“土曜夜7時”から“日曜夜10時半”に移行した。フツーのテレビの“プロレス番組”は、昭和の終わりにはゴールデンタイムから完全に姿を消したのだった。
『ギブUPまで待てない!!』はいまから30年近くもまえの“テレビ業界の事件”で、『ワールドプロレスリング』が“深夜番組”になったのもすでに20年以上もまえのことだから、いまどきのプロレスファンにとってはどちらも“映像アーカイブ”のなかでのできごとということになるのだろう。
“金曜夜8時”は昭和のプロレスをもっとよく知るためのキーワードで、力道山、馬場さん、猪木さんの試合映像はプロレスが“ゴールデンタイム”の人気番組だった時代のキラー・コンテンツだ。いまどきの若者、いまどきのネットユーザーはそもそもあまりテレビを観ない。プロレスの映像は――モノクロのフィルム、VHSのビデオから現在進行形のCGものまで――日本で、アメリカで、プロレスファンがいる世界じゅうの国ぐにでテレビからネット空間に移動しつつある。
力道山のプロレスも、馬場さんのプロレスも、猪木さんのプロレスもパソコン、スマートフォン、タブレットの画面のなかを動きまわる“動画”である。力道山、馬場さん、猪木さんの“動画”をとことん客観視できるようになると、プロレスのことがいまよりもっとよくわかるようになる。プロレスのことがもっとよくわかるようになると、プロレスのこれからについてももっとよく考えることができるようになるのである。
文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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