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猪瀬直樹、五輪招致と妻の死を振り返る

猪瀬直樹 ’13年9月、ブエノスアイレスのIOC(国際オリンピック委員会)総会。世界が固唾を呑んで見守るなか、ジャック・ロゲIOC会長が「トーキョー」と東京の勝利を告げたとき、歓喜の輪の中心にいたのは、東京五輪招致委員会“チーム・ニッポン”を率いた猪瀬直樹・東京都知事だった。だが、わずか3か月後、都知事選での5000万円の資金借用問題が火を噴き、猪瀬氏は辞任を余儀なくされた……。  五輪招致レースのさなか、最愛のゆり子夫人を亡くす悲運に見舞われるも、東京への招致に成功。政治家として絶頂に上り詰めながら、一転、奈落の底へ。あれから、早1年。猪瀬氏は今、何を思うのか――。 ――都庁を去ってからは、どんな暮らしを送っていたのですか。 猪瀬:妻がいた頃の何でもない日常を、改めてつくっていくのは大変ですね……。まずは、妻の供養と禊ぎの意味を込めたこの本(『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』)の執筆。医師とのやりとりや、妻の病状を記したメモを読みながら、あの日、妻はどうだったのだろう、と思い返したり、CDで「花嫁」の歌を聴いたりして過ごしていたよ。この曲の歌詞のように、何の成算もなく19歳で上京した僕を、妻は追ってきてくれたんだ。若い人は知らないだろうけど、いい歌なんだよ(スマホを手に、ユーチューブで曲を流す)。俺は自分のことを書かない作家だったから、この本が本当にいいのか心配だったね。 ――マドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)、そして東京で熾烈な争いを演じた’20年五輪の招致レースの最中、夫人が逝去しました。 猪瀬:あまりにも急だった……。3月にIOCの評価委員会が訪日したときには、一緒にテニスをやっていたくらいだから、その頃は何ともなかった。その後、思うように言葉が出なかったりしたので、5月になって医師に診てもらったら、悪性の脳腫瘍で余命数か月と言われたんです……。その翌日には、五輪招致のプレゼンのためにサンクトペテルブルグに飛ばなければならなかった。 ――夫人が重篤な症状に陥り、心中を察しますが、プレゼンはにこやかにやるもの。顔で笑って、心で泣いて……やり遂げたわけですか? 猪瀬:動揺をさせてしまうので、周りには言えないしね。サンクトペテルブルクのプレゼンでは、日本人のホスピタリティの高さを前面に出すために、敢えてお金の話をしたんだ。「東京では、財布を落としても、現金が入ったまま戻ってきます」――。プレゼンでは珍しく、会場は笑いに包まれたんだよね(笑)。その後の会見で、外国人記者の「(映画監督の)スピルバーグでも雇ったのか?」とジョーク混じりの質問に、手応えを感じたのを覚えてるよ。日本人の男性政治家が、スピーチで冗談を飛ばす……ユーモアを解する好人物と受け取ってくれたんだろうね。あまりに受けがいいから、このネタは、東京五輪を決めたブエノスアイレスで、「お・も・て・な・し」のプレゼンをしたクリステルさんに譲ったんだ。 ――その頃、夫人の病状はどうだったんですか? 猪瀬:帰国すると、病室のテレビで俺のプレゼンを見ていた妻は、「よかったわよ」と喜んでくれました。医師によれば、手術すれば半年か1年はもつとのことだったのが、手術の3日後、妻は昏睡状態に陥ってしまって……。だから、さようならって言えなかった。それでも、招致レースはまだ続く。俺は妻の死を覚悟して、ローザンヌに飛んだんです。 ※1/6発売の週刊SPA!「エッジな人々」では、猪瀬直樹氏のロングインタビューを掲載中。資金借用問題などについて語っている続きは、ぜひ、本誌でご確認を! <取材・文/齊藤武宏 撮影/福本邦洋>
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この国を守るのは「官」ではない。

正義について考えよう

同調圧力に屈しやすく、リーダー不在でも自ら意思決定を下すこともできない。不決断と総無責任体制の日本には、正義は存在しないのか。安保法制、改憲論議、福島と沖縄の宿痾、東京五輪問題、ジャーナリズム論、文学部不要論……日本が直面する諸問題を「正義」を軸に激論を交わす

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表紙の人/大島優子

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