更新日:2022年07月02日 09:56
スポーツ

“ミスターNWA”レイスの心変わり――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第63回

 日本のレスリング・シーンとも深いかかわりを持ち、1968年の初来日から旧日本プロレス―全日本プロレスの常連外国人選手として活躍。ジャイアント馬場に敗れNWA世界王座を失い、1週間後にこれを奪回するという大きなドラマを2度にわたり演じ(1979年11月5日=宮崎・串間、1980年9月4日=佐賀)、その後はジャンボ鶴田からUNヘビー級王座(1982年8月1日=東京・後楽園ホール)、馬場からPWFヘビー級王座(1982年10月26日=北海道・帯広)を奪取した。  フェイバリット技はブレーンバスター、ダブルアーム・スープレックス、サイド・スープレックス、ベリー・トゥー・ベリー・スープレックスなどのスープレックス各種とトップロープからのダイビング・ヘッドバット。インディアン・デスロックはビッグマッチにだけ使う隠し技。キャンバスに寝かせた相手の額に鋭角的にヒザを落とすニードロップ、トップロープからデッドリードライブで投げられてしまう“やられ芸”のふたつはフレアーに継承された。  レイスからフレアーへの政権交代は“大NWA”の内部崩壊を意味していた。フレアーがチャンピオンになったことでNWAの実権はセントルイス本部からNWAクロケット・プロ(ジム・クロケットJr代表=ノースカロライアン州シャーロット)に移り、全米の加盟プロモーターが集まる年にいちどのNWA年次総会も1985年を最後におこなわれなくなった。  NWAクロケット・プロは事業拡大プランの一環としてNWAジョージア地区(1985年)、NWAセントラル・ステーツ地区(1986年)、NWAセントルイス地区(1986年)を吸収。ボブ・ガイゲル、パット・オコーナー、バーン・ガニアの3者とともにNWAセントルイス地区の共同オーナーだったレイスは、興行テリトリーの消滅とともに現役選手としては事実上、フリーエージェント的な立場になった。
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現役生活の最後のチャプターとしてWWEのリングを選択
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