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ハーリー・レイス “ミスターNWA”という道――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第32話>

ハーリー・レイス “ミスターNWA”という道<第32話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第32話は「ハーリー・レイス “ミスターNWA”という道」の巻。(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 NWA世界ヘビー級王座を通算8回獲得した“ミスターNWA”である。  黒革に楕円形のゴールドプレート、中央に円形の世界地図が描かれたNWA世界王座のチャンピオンベルトは一般に“レイス・モデル”と呼ばれている。  このデザインのチャンピオンベルトがお披露目されたのはハーリー・レイス対ジャック・ブリスコの歴史的なタイトルマッチがおこなわれた日だった(1973年7月20日=テキサス州ヒューストン)。  レイスは、町の不良少年がスポーツで更正し、ワールド・チャンピオンになるというまるで“20世紀のおとぎばなし”のような道を歩んだ。  15歳のときに先生を殴ってハイスクールを退学になった。学校からドロップアウトしたあとは、昼間は“伝説のレスラー”スタニスラウス・ズビスコの農場で働き、夜になるとズビスコから実戦用レスリングを習うという生活を送った。  ハイスクールに入学するときにはすでに6フィート2インチ(約187センチ)、体重225ポンド(約102キロ)の体格だった。  子どものころからテレビで“レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン・イン・シカゴ”(ドゥモン・ネットワーク)を観ていたからプロレスは大好きだった。  16歳の誕生日の数週間まえにカンザスシティーのプロモーター、ガスト・キャラスに“雑用係”として雇われた。  体重800ポンドの超巨漢レスラー、ハッピー・ハンフリーHappy Humphreyを乗せる輸送用トラックの運転とハンフリーがシャワーを浴びるのを手伝うのが仕事だった。  プロレスの試合会場に出入りするようになって、キラー・バディ・オースチンKiller Buddy Austinからプロレスの基礎を教わり、1959年に16歳で初めてプロレスラーとしてリングに上がった。  カンザスシティーのあとはテネシー州ナッシュビル、ナッシュビルのあとはテキサス州アマリロへと流れていった。  ルーキー時代を過ごしたアマリロで、レイスはまだ大学生だったドリーとハイスクールを卒業したばかりのテリーのファンク兄弟とよくいっしょにトレーニングをした。  1943年生まれのレイスは、年齢ではドリー(1941年生まれ)とテリー(1944年生まれ)のちょうどまんなかで、ティーンエイジの家出少年同然だったレイスはドリー&テリーとほんとうの家族のような時間を過ごした。  プロモーターのドリー・ファンク・シニアは、天然のカーリーヘアとアゴの形がよく似ているという理由でレイスとラリー・ヘニングにタッグチームを組ませた。  “ハンサム”ハーリー・レイス&“プリティ・ボーイ”ラリー・ヘニングはコンビ結成から2年後にヘニングのホームタウンのミネソタに転戦し、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの実力派コンビを下してAWA世界タッグ王座を手に入れた(1965年1月30日=ミネソタ州ミネアポリス)。  レイスはこのときまだ21歳だった。おそろいの黒のロングタイツをはいたレイス&ヘニングのコンビはその後、AWA世界タッグ王座を通算4回獲得する。
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キャリア、ステージごとにビジュアル・イメージが変化
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