永田裕志の“WCWマンデー・ナイトロ”時代――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第267回(1997年編)
毎週、月曜夜の生中継番組“マンデー・ナイトロ”に出演できるのはそのなかでも厳選されたメンバーだけである。じっさいには、マンデーナイトにリングに上がれない選手たちの人数のほうが“ナイトロ”のレギュラー出演者ワクをはるかに上回っている。テレビ番組的なストーリーラインにからめないクラスの選手たちはよけい出番がない。
「石澤はどうスか?」
やっぱり、日本のことが気になるのだろう。ユージ・ナガータは、ウルティモ・ドラゴンのような外国定住型のプロレスラーではないし、また本人もそれを望んではいない。永田は全米ツアー中もいつも新日本プロレスのジャージの上下を着て、胸をはって歩いている。
“マンデー・ナイトロ”の放映開始時間の直前におこなわれるダーク・マッチは、ロックのコンサートでいえばオープニング・アクトのようなものだ。リングに上がった永田は、にらむような目でアリーナの上段のほうをぐるりと見渡した。ユージ・ナガータのレスリングを観ることができるのは、その日、その時間にそこにいたライブの観客だけである。試合をしているあいだじゅう、永田は観客との対話を試みていた。
しいていえば、かつてのジャンボ鶴田のようなタイプということになるのだろう。レスリングの技術そのものには絶対的な自信があって、相手の動きと自分の動き、そして観客の動きが客観的に目に入っている。だから、プロレスがよくみえている。
「自信はめっちゃくちゃありますよ」
永田は、遠くをみるような目をしてもういちど鼻の穴をふくらませた。
――WCWでの武者修行を終えた永田は、翌1998年(平成10年)に帰国。2001年(平成13年)の“夏の本場所”G1クライマックスでは決勝戦で武藤敬司を破り初優勝。その後、IWGPヘビー級王座を通算2回獲得した(2002年4月5日=安田忠夫から王座奪取、2007年4月13日=棚橋弘至から王座奪取)。
しかし、ほとんど準備期間のないまま試合にのぞんでしまったミルコ・クロコップ(2001年12月31日)、エミリヤーエンコ・ヒョードル(2003年12月31日)という世界の頂点に立つMMAファイターとの対戦では惨敗。プロレスとMMAの境界線があいまいだったミレニアムの時代の“空気”にほんろうされたこともあった。クロコップ、ヒョードルとの勇気ある一騎打ちは再評価されるべきだろう。ことし4月24日の誕生日が来ると49歳。“中年ファンの希望の星”として、永田は50代でのIWGPヘビー級王座への返り咲きをめざしている――。
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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