更新日:2022年12月10日 18:30
スポーツ

ブルーノ・サンマルチノ “人間発電所”から“生ける伝説”へ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第12話>

 24歳のときにノースアメリカ・ウエートリフティング選手権でベンチプレス565ポンド(約256キロ)、スクワット715ポンド(約324キロ)、デッドリフト690ポンド(約312キロ)という記録をマークし、これがルーディ・ミラーRudy Millerという人物の目にとまった。  ルーディ・ミラーは、ワシントンDCにオフィスをかまえていたビンス・マクマホン・シニアのキャピトル・レスリング・コーポレーション(WWEのルーツ)のピッツバーグ担当プロモーターだった。  ガーデンのリングでサンマルチノがバディ・ロジャースを48秒で下し、新設WWWF世界ヘビー級王座を手にしたのは1963年5月17日。  両者は前年にもカナダ・トロントで対戦し、このときは2-1のスコアでサンマルチノが勝利を収めたが、3本勝負のファイナル・フォールがロジャースの“負傷”による試合放棄だったため、チャンピオンのロジャースがNWA世界ヘビー級王座をキープした(1962年8月2日=メープルリーフ・ガーデン)。  約40万人のイタリア移民が住むトロントで、無名の新人サンマルチノは一夜にして“時の人”となった。  ニューヨークで泣かず飛ばずのルーキーだったサンマルチノをトロントに呼んでくれた恩人は“耳のないレスラー”ユーコン・エリックだった。  サンマルチノはデビューから3年7カ月という短期間でニューヨークのスーパースターの座にかけ上がったが、ボスのマクマホン・シニアとサンマルチノの緊張関係が変わることはなかった。  NWAを脱退し、新団体WWWFを設立したばかりのマクマホン・シニアは、40代のロジャースに代わる新しいスターを発掘しようとしていた。  サンマルチノがニューヨークを離れてトロントに活動の場を求めたそもそもの理由は、“資本家”マクマホン・シニアに対するどうにもならない不信感だった。  トロントでの活躍のうわさを耳にしたマクマホン・シニアは「過去のことは忘れてLet bygones be bygones」とサンマルチノを口説き落とした。  27歳のサンマルチノにとって、ガーデンで千両役者ロジャースと闘えるというプランは魅力的だった。  サンマルチノは、“ロシアの怪豪”イワン・コロフIvan Koloffに敗れ王座から転落(1971年1月18日)するまで7年8カ月の長期間にわたりWWWF世界王座をキープした。  サンマルチノさえそこにいれば、ガーデン月例定期戦は超満員になった。サンマルチノからまさかのフォール勝ちを奪ったコロフ(本名ジム・パリス)は、ソビエト連邦からやって来た元重量挙げ選手というふれ込みだったが、じっさいはカナダ・モントリオール出身のフレンチ・カナディアンだった。  サンマルチノ政権崩壊という大きなドラマに“米ソ冷戦構造”のシナリオがアダプトされた。  そのコロフを下してサンマルチノのあとのニューヨークの主人公となったペドロ・モラレスの観客動員力が下降してくると、マクマホン・シニアは引退を考えていたサンマルチノに「ペドロと“今世紀最大の一戦”をやってくれ」と企画を持ちかけ、シェイ・スタジアムでのモラレス対サンマルチノのタイトルマッチが実現した(1972年9月30日)。  モラレスがサンマルチノ級のスーパースターにはなれないと判断すると、マクマホン・シニアは「またいっしょにやろう」とサンマルチノとコンタクトを図った。  マクマホン・シニアは、ビジネスのためには手段を選ばない男だった。  このマクマホン・シニアのDNAはそれから30年後に世界征服を実現する息子ビンス・ケネディ・マクマホンにきっちりと受け継がれている。  サンマルチノは、モラレスを倒したワンポイント・リリーフのスタン・スタージャックStan Stasiakからチャンピオンベルトを奪い返し、長編ドラマの第2部がスタートする(1973年12月10日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。
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「1年という約束だった」
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