ブルーノ・サンマルチノ “人間発電所”から“生ける伝説”へ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第12話>
サンマルチノ自身はこのときのマクマホン・シニアとの会話を「1年という約束だった」とふり返るが、“人間発電所”から“生ける伝説Living Legend”に格上げされたサンマルチノの長編ドラマは、41歳のサンマルチノが“スーパースター”ビリー・グラハムに敗れるまで(1977年4月30日=メアリーランド州ボルティモア)3年4カ月のロングランとなる。
WWWF世界ヘビー級王座のチャンピオンベルトは何度かモデルチェンジをかさねた。サンマルチノがロジャースから奪ったオリジナルの黒革モデルのベルトは、1960年代後半にマンハッタンのレストランで盗難にあった。
1970年代に使われたゴールドのベルトはいまでもサンマルチノの自宅に保管されているという。サンマルチノとマクマホン・シニアの緊張関係はいつしか腐れ縁になっていた。
1981年10月にサンマルチノは正式に引退を表明するが、デビューしたての息子デビッド・サンマルチノをサポートするために1985年にリング復帰を果たす。
しかし、WWEがビンス“ジュニア”の時代に入ると、サンマルチノはレスリング・ビジネスとの絶縁を宣言した。
サンマルチノが考えるプロレスとビンスが考えるプロレスは、まったく異なるふたつのジャンルだった。
サンマルチノの現役最後の試合は、ハルク・ホーガンとのコンビでキングコング・バンディ&ワンマン・ギャングと対戦したタッグマッチ(1987年8月29日=ボルティモア・アリーナ)。
試合後、サンマルチノはホーガンといっしょに音楽に合わせて定番の“筋肉ポーズ”までとってみせた。
●PROFILE:ブルーノ・サンマルチノBruno Sammartino
1935年10月6日、イタリア・アブルーチ出身。第二次世界大戦後、1950年に家族とともにペンシルベニア州ピッツバーグに移住。重量挙げ選手として活躍後、1959年10月、デビュー。WWWF世界王座を2回、通算11年4カ月にわたり保持。ハルク・ホーガンが出現する以前のニューヨーク・ニューヨークでいちばん有名なプロレスラー。ジャイアント馬場のアメリカ武者修行時代の親友で、劇画『ジャイアント台風』にも実名で登場している。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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