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ゴリラ・モンスーン ほんとうはインテリだったモンスター ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第25話>



 WWEのレギュラー・メンバーとなったモンスーンは、1969年にサンマルチノとの“友情物語”でベビーフェースに転向し、ペドロ・モラレスがWWE王者だった2年間はモラレスの通訳&マネジャー――プエルトリコ生まれで母国語がスペイン語のモラレスは英語が苦手という設定だった――というポジションを演じた。

“満州出身”というキャラクターは封印され、1976年にはアーノルド・スコーラン、フィル・ザッコー(フィラデルフィアのプロモーター)とともにキャピタル・レスリング・コーポレーション(WWEの親会社=当時)の役員に就任。

 同年5月、モハメド・アリ対アントニオ猪木の異種格闘技戦のアメリカ国内のクローズド・サーキット上映用の“予告編”として、アリと場外乱闘を演じたこともあった。

 ビンス・マクマホン・シニアからビンス・マクマホン“ジュニア”へのバトンタッチは、1982年6月にビンスが父ビンス・シニアからキャピタル・レスリング・コーポレーションの全株式を買いとる形で実現したが、このときモンスーンも同社の20パーセントにあたる持ち株をビンスに売却。

 ビンスがオーナー社長となった新会社タイタン・スポーツ社と新たに10年契約を結び、テレビ番組の制作部門に転身した。

“1984体制”からはWWE自社制作のテレビ番組のエグゼクティブ・プロデューサーとして手腕をふるうかたわら、ベビーフェースの実況アナウンサーとしてジェシー・ベンチュラJesse Ventura、ボビー・ヒーナンBobby Heenanらヒールのコメンテーターと名コンビを組んだ。

 毎週月曜夜の“マンデーナイト・ロウ”、火曜夜の“スマックダウン・ライブ”の全米生中継を発信するコントロール・ルーム――ビンス・マクマホンが陣どるプロデューサー・ブース――は、番組プロデューサーとしてのモンスーンの功績を称え、現在でも“ゴリラ・ポジション”という名称がつけられている。

●PROFILE:ゴリラ・モンスーンGorilla Monsoon
1937年6月4日、ニューヨーク州ロッチェスター出身。本名ロバート・ジェームス・モレラ(愛称はジノ)。1959年、デビュー。WWWF・USタッグ王座2回保持。1979年に引退後はTVアナウンサー、番組プロデューサーとして活躍。1981年に引退試合。1999年10月6日、腎臓不全のためニュージャージー州ムーアズビルの自宅で死去。享年62。

【ひとくちメモ】モンスーンは現役時代、通算5回来日。日本プロレスの『ワールド・リーグ戦』に3回出場(1963年、1969年、1972年)。1972年(昭和47年)の“第14回大会”では公式リーグ決勝戦でG・馬場に敗れた。最後の来日となった全日本プロレスの“マジソン・スクウェア・ガーデン・シリーズ”(1974年=昭和49年5月)ではアントン・ヘーシンクと“柔道ジャケット・マッチ”で対戦した。

※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦

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