ペドロ・モラレス “ラテンの魔豹”と呼ばれた男――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第31話>
ブルーノ・サンマルチノ時代のすぐあとのWWEの主人公だった。
“人間発電所”サンマルチノがイタリア移民であったのに対し、モラレスのバックグラウンドはニューヨーク・ニューヨークのプエルトリカン。映画『ウエストサイド物語』のイメージと考えるとわかりやすい。
コントラストの異なる2色のオレンジ色の組み合わせになったショートタイツとオレンジ色のリングシューズがトレードマークで、ナチュラル・カールの黒髪と大きな黒い瞳、ヘビーなスペイン語なまりのブロークン・イングリッシュがチャームポイントになっていた。
バルバ・ラヨBarba Rojoというプエルトリコ人レスラーにレスリングの手ほどきを受け、1958年に16歳でニューヨーク郊外のサニーサイド・ガーデンでデビュー。
初めてマディソン・スクウェア・ガーデンのリングに立ったのは、サンマルチノがバディ・ロジャースを下してWWE世界ヘビー級王座(当時はWWWF)を獲得した歴史的なタイトルマッチがおこなわれた日で、無名の新人だったモラレスは前座の第2試合でウィリー・バスWille Bathという選手とシングルマッチをおこなった。
ルーキー時代のモラレスのフェイバリット技は、垂直跳びスタイルのスタンディング・ドロップキックだった。
ジャイアント馬場のアメリカ武者修行時代のストーリーをドキュメンタリー・タッチでつづった劇画『ジャイアント台風』(原作・高森朝雄&辻なおき)のなかにモラレスが若き日の馬場にドロップキックを伝授し、“32文ロケット砲”が誕生するというエピソードがある。
真偽のほどはさだかではないが、モラレスにとってドロップキックが“一芸”であったことは事実だろう。
ニューヨークの前座レスラーだったモラレスをスーパースターに変身させたのは、あのフレッド・ブラッシーだった。
サンマルチノとのタイトルマッチのためニューヨークにやって来たブラッシーは、モラレスのドロップキックをみて「(エドワード・)カーペンティアなんかよりお前のほうがずっとすごい」といって、20歳のモラレスをロサンゼルスに連れ帰った。
ブラッシーは、スパニッシュ・スピーキングのモラレスは西海岸のチカノ層(メキシコ系アメリカ人)にウケると読んだ。
ブラッシーのもくろみどおり、モラレスはロサンゼルス・エリアのヒット商品となり、WWA世界ヘビー級王座を2回、WWA世界タッグ王座を通算4回獲得。
1960年代のほとんどをウエストコーストで過ごすことになる。ビンス・マクマホン・シニアがモラレスをニューヨークに呼び戻すのは、サンマルチノが“ロシアの怪豪”イワン・コロフに敗れWWE世界王座から転落した1971年1月のことだった。
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