借金取りを本気で殺そうとしたプロレス少年の愛と絶望――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第5話>
本当の意味でプロレスを知った少年。彼がプロレスを嫌いになることはなかった。それどころか、いかがわしさとファンタジーが共存するプロレスのことがもっと好きになった。相手の技をあえて受けることの強さを知った。どんなことでもドラマに変えてしまう演出力を知った。他人との信頼関係の大切さを知った。勝つことだけが全てではないことを知った。
「プロレスってねえ、やられている時間帯が必ずあるじゃないですか。人生もそれと一緒ですよ。辛いことや苦しいことがあっても、やられてりゃあいいんです」
武藤敬司のこの言葉のように人生を生き抜いてきた少年は大人になり、ようやく心から愛する女を見つけた。彼女のために、これから先に待ち受けているどんな困難にも打ち勝たねばならない。強い気持ち、強い愛を形にして見せるのだ。寒風を切り裂いて走る私の目前に雪だるまが迫っていた。距離を合わせて側転を決め、「おらぁ!」と雄叫びを上げながら十五年ぶりのスペースローリングエルボーを炸裂させた。崩れ落ちていく雪だるま。どうだ、これが俺のスペースローリングエルボーだ。何の罪もない雪だるまを破壊してガッツポーズを決める私に向かって、アスカが猛然と走ってくるのが見えた。あれだけ苦労して作った雪だるまを無残に壊されたのだ。アスカの怒りは相当なものだろう。甘んじて彼女の怒りを受け止めようと両手を広げて待ち構える私に目掛けて、アスカは本当に下手糞な側転をしてからの体当たりをしてきた。世界でいちばん可愛いスペースローリングエルボーだった。
「面白い動きしてたから真似しちゃった」
「アスカ、全然真似できてなかったよ」
「嘘だ! ちゃんとできてたよ!」
「できてない。運動音痴のアスカは基礎体力からつけないとな」
「私にもいつか綺麗な側転できるかなぁ」
「……きっとできるよ。俺が教えてあげる」
「ありがと」
人を殺すために身につけたこの技を、これからは可愛い彼女を守るため、この子に笑ってもらうためだけに使っていこう。ようやく私はスペースローリングエルボーの呪縛から解放された気がした。いつかまた東京に雪が積もることがあったら、一緒に雪だるまを作ろう。そして一緒にスペースローリングエルボーをしようね。アスカ。
これが私とアスカの唯一の雪の日の思い出になった。アスカと別れてもう七年が経つ。人生とは本当に残酷なものだが、たった一つの素敵な思い出だけで生きていけるのもまた人生なのだ。私はやろうと思ったらいつでも側転ができるが、そう簡単にやりはしない。今はまだ側転を見せたいと思えるだけの女がいないだけだ。そう強がって、明日も生きていく。
文/爪 切男’79年生まれ。会社員。ブログ「小野真弓と今年中にラウンドワンに行きたい」が人気。犬が好き。 https://twitter.com/tsumekiriman
イラスト/ポテチ光秀’85年生まれ。漫画家。「オモコロ」で「有刺鉄線ミカワ」など連載中。鳥が好き。 https://twitter.com/pote_mitsu

―[爪切男の『死にたい夜にかぎって』]―
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『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー! ![]() |
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