“ストーンコールド”スティーブ・オースチン タフ・ガイは最後までタフ・ガイ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第87話>
“ストーンコールド”スティーブ・オースチンは、壊れやすいタフ・ガイだった。“ガラスの首”というどうすることもできない弱点を持っていた。
スポーツ医学用語ではスパイナル・ステノーシスspinal stenosis(脊髄きょうさく症)と呼ばれる症状で、脊髄・脊柱と神経に大きなダメージを抱えながらリングに上がっていた。
首の故障さえなければもっともっと長くプロレスをつづけることができたかもしれないけれど、ケガの心配がなくてもビンス・マクマホンとはいずれ大ゲンカをしていたかもしれない。
ストーンコールドの14年間の現役生活は不運なアクシデントの連続だった。
新日本プロレスのリングではストーンコールドとの試合で蝶野正洋が首を負傷した(1992年)。WCW在籍時代はリッキー・スティムボートがストーンコールドとの試合で腰を負傷して引退した(1994年)。
ストーンコールド自身のコンディションでは、オーエン・ハートとの試合中に起きた首の骨折というアクシデントが“時計の針”を大きく狂わせた。
ストーンコールドが引退試合をせずにリングを下りてしまったいまとなっては、すべての問いに“if”の疑問詞がつく。
“オースチン3:16”というキャッチフレーズがストーンコールドを一夜にしてスーパースターにした。
“3:16”とは新約聖書でいうところの“第3章・第16節”。もちろん、ほんものの聖書には“オースチンの章”なんて存在しないが、ストーンコールドがマイクをつかんで「オースチン第3章・第16節、テメーをひねりつぶしたぜ」と叫んだら、これがバカ受けした。
ストーンコールドが罵声を浴びせた相手は、ドラッグ依存症を克服して敬けんなクリスチャンになったジェーク“ザ・スネーク”ロバーツだった(1996年6月23日=ウィスコンシン州ミルウォーキー“キング・オブ・ザ・リング”)。
ストーンコールドは、テキサス州ダラスの“クリス・アダムス・スクール”でプロレスの基礎を学んだ。
ワートン・カウンティ短大、ノース・テキサス州立大ではフットボールで活躍したが、大学は卒業せず、20代なかばまでは貨物会社でフォークリフトを運転していた。
デビューはダラスWCCWとテネシーUSWAが合併した直後のダラスUSWAで(1989年12月)、師匠アダムスと1年におよぶ因縁ドラマを演じた。
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