クリス・ベンワー ナイスガイの“反則死”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第97話>
新日本プロレスはクリスにダイナマイト・クリスというリングネームを与えたが、クリスはこれをやんわりと拒否した。“ダイナマイト”を名乗るには未熟すぎるというひじょうにストイックな理由からだった。
カルガリーと日本を往復する生活がはじまり、クリスは獣神サンダー・ライガーのライバルとしてマスクマンのペガサス・キッドに変身した。
ライガーとの闘いでマスクをはがされたあとはワイルド・ペガサスに改名。“トップ・オブ・ザ・スーパージュニア”リーグ戦(1993年)、“スーパーJカップ・トーナメント”(1994年)、“ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア”リーグ戦(1995年)に優勝し、日本におけるジュニアヘビー級のトップスターの座にかけ上がった。
日本の食べものはだいたいなんでも食べられるが、なかでもウエートトレーニング用の“体重維持フード”として気に入っているのが白いゴハンと豆腐だった。
街なかの牛丼チェーン店に入ってゴハンと豆腐だけを注文したら、よこにいたおばあさんが「お金がないの? かわいそうね」と千円札をくれたというヘンなエピソードもある。
新日本プロレスのブッキングでヨーロッパ、メキシコをツアーし、ヨーロッパでは1都市長期滞在型のトーナメント大会、メキシコではアメリカン・スタイルともジャパニーズ・スタイルともちがうルチャリブレを経験した。
ECWプロデューサーのポール・ヘイメンが「どうしても来てくれ。キミは天才だ」と毎日のように電話をかけてくるようになって、“ジュージャパン・ガイジン”のブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)、ディーン・マレンコといっしょにECWのハードコア空間をのぞいてみることにした。
カルガリーの“スタンピード・レスリング”はこの時点ですでに活動を休止していた。
ECWアリーナではクリスのジャパニーズ・スタイルのプロレスがみんなから無条件にリスペクトされた。ECWの常連グループになったとたん、WCWがクリス、エディ、ディーンの3人に専属契約のオファーをぶつけてきた(1995年)。
ぶ厚いコントラクト(契約書)に記載されていた契約年俸はそれまで目にしたことのないような金額だった。アメリカのレスリング・ポリティックス(政治面)の暗部を初めて目撃したのは、このWCWとの契約書にサインをしたあとだった。
クリスに用意されていたのは“前座”の定位置だった。
ドレッシングルームのなかにはいくつかの政治的派閥があって、ハルク・ホーガンとケビン・ナッシュのグループ、スティングとレックス・ルーガーのグループ、リック・フレアーとその仲間たちといったぐあいにプロレスラーとしてのタイプも主義・主張も利害関係も異なる複数のグループが奇妙な距離感を保ちながら共存していた。
WCWとWWEが毎週月曜夜のTVショー“マンデー・ナイトロ”と“マンデーナイト・ロウ”の視聴率を争っていた時代だった。
約4年間在籍したWCWでのいちばん貴重な体験は、ブレット・ハートとのシングルマッチが実現したことだった(1999年5月23日=ミズーリ州カンザスシティー、ケンパー・アリーナ)。
この試合の5カ月まえ、ブレットの弟オーエンが同じアリーナで不幸なアクシデントで命を落とした。ブレットは、天国のオーエンに捧げるメモリアル・マッチの対戦相手にクリスを指名した。
ふたりはオーエンが見守るリングでカルガリー・スタイルのプロレスでぶつかり合った。ブレットはそれから3カ月後にリングと別れを告げ、クリスはエディ、ディーンら信頼できる仲間とともにWWEへの移籍を決意した。
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