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<純烈物語>「苦労を素っ裸で投げたら重くなる」後上翔太の純烈観<第73回>

純烈_後上翔太1

<第73回>苦労を素っ裸で投げたら重くなる――後上が考える「ちゃんと純烈をやること」

 11月13日に純烈は有観客によるコンサートツアーの再開を発表。もちろん現状を鑑みると予断は許さぬものの、延期となっていた全国ツアーのうち’21年1月7日の相模女子グリーンホールを皮切りに5公演が確定した。  無観客ライブ、観客1人のコンサートと、段階を踏んできたわけだが、通常とは違う形でのステージを経験してみて改めてわかったことが、後上翔太にはあった。それは「自分たちは、お客さんによって及第点にいけたんだな」との思いだ。 「たとえ配信ライブを定期的に何度もやっていたとしても、そんなにいろんな曲を今までもやってきたわけではない。そこはセットリストの組み方で変化をつけてきただけで、それ以外に無観客だからバリエーションをつけなければとなったら、たとえばアコースティックVer.でやるとかそれぐらいのことで、僕らのやれることによる大きな変化というのは、そこまではないんです。  じゃあ、今日はよかったとか及第点だったなって何を持って思えるかというと、お客様が目の前にいてくれる状況で何かをやって得られるものだったんだなと。今日はミスったとなっても、ラウンドや終演後の握手で喜んでくださるそのリアクション込みで、その日のライブの評価を自分の中で出せていた。反省点が残ったとしても、あの瞬間に『今日は及第点かな』って思っていたんだよなって、改めて感じました」  ライブの出来のバロメーターである、オーディエンスのリアクションが目の前から消えた。それは、観客のいないテレビ番組で歌う時と似た感触でもあった。  ダイレクトな反応がないシチュエーションになると、後上は自分の実力不足を感じてしまうのだという。テレビの場合、スタッフは各自の役割に集中しているから、自分が今やっているパフォーマンスの良し悪しを見極める“物差し”を得られぬ中での歌となる。  それをライブごとに味わっていたら、日々の中でだいぶ打ちひしがれていた。けれども、観客と接することでそうした辛さを感じずにやってこられた。 「仕事をするたびに力不足を痛感するところを、お客さんの反応によって味わわずにいられた部分は大きかった。そこで落ち込むのではなく、これってみんなが感じることなんだろうな、だったら甘んじてそれを感じて、その上で課題として挑むところと諦めるべきところに分けてしまおうと。全部追いかけてクリアしようと思っても無理なんだから、ハナからその山には登りませんというのがあってもいいと思えたんです」  登らなくてもいい山と認識できたから、ライブができなかった間も枯渇感には陥らなかった。これは、純烈そのものが「俺の生き甲斐は音楽なんだ! 俺たちの生きる道はステージだぜ!!」というアーティスティックなテイストのグループではなかったのが大きいと後上は分析する。

「年内はライブをやらない」と決断できた理由

 自己表現の手段として、音楽一筋の姿勢でやっている人間ほどステージに立てないのはこたえる。それに対し純烈はもともとが素人集団のスタートであり、そこへのこだわりよりも観客を楽しませる方がプライオリティーとしては上にあった。  バリバリの音楽家としてステージを奪われたら耐えきれなかった。早い段階で酒井一圭が「年内はライブをやらない」と決断できたのも、ならばほかの形でファンに喜んでもらおうというコンセンサスがメンバーやスタッフにあったからだ。  ライブをやらないことで忘れられてしまうという不安や、ファンに会いたいとの思いは当然あった。それでも、いい意味で割り切れたことにより「無観客も渋公の配信ライブでも、大事だからこそやるからには考えなきゃいけないというところでのバランスは取れていた」  有観客ライブ再開までに費やす時間は、ファンにやっと会えたと思ってもらえるほどの熱量を生成するための積み重ねの場と、後上は受け取っている。祭りにいく前、浴衣を羽織る時のワクワク感のようなものを両手いっぱいに抱え込んで、幕の前で待っていてほしい。
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苦労にどういう服を着させて、客に投げるか
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