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夜の店で働くわたしが「コロナ禍に飲み屋は必要?」について思うこと

粒アンコ

第三十八夜 「餅は餡でかたくなる」が

 酔っ払いの皆さま方、新年あけましておめでとうございます。飲んだくれた正月をお過ごしでしょうか?  わたしの勤めるスナックも今年は例年に比べて少し長めの休暇に入り、毎年恒例だった年始の麻雀イベントの開催もなく、自宅で伸びきったゴムのようにゴロゴロと転がっては積ん読を消化して惰眠を貪り怠惰を極めている。  それにしても昨年はあらゆる日常が一変した年だった。いつの時代にも節目にこうした変化とそのきっかけがあったことは理解していても、平和というぬるま湯に頭のてっぺんからつま先まで浸かったわたしたちは、いわゆる「有事」に慣れていなくて、国の仕組みから個人の人間性までいろんなものが露わになっていった。別に年が明けたからといって何かがリセットされるわけでもなく、リセットされるのは暦ぐらいのもので、この「コロナ禍」と呼ばれる現在の状況さえもわたしたちにとってぬるま湯の日常になりつつある。人間は良くも悪くも慣れてしまう生き物だから、国が慌てて特措法の改正などと言いだしても何をいまさらという感じも否めない。  原発事故の時とそんなに変わらない。わたしの故郷である福島県内に住む人間もはじめのうちは農産物から検出される放射性セシウムに過敏になっていたが、早十年が過ぎた今、話題に上がることはほとんどいない。決して消えたわけでもなく依然としてそこにあるが、そこにあるのが当たり前になる。何も変わらないが何故か「もう大丈夫」になる。錯覚のぬるま湯でまた日常を繰り返してゆく。そう考えれば、「平和な日常」とはすべて錯覚の積み重ねであるようにも思える。どうあっても生きてゆくしかないわたしたちは錯覚するしかないのだ。

出社を酒を飲む大義名分にする者も

 昨年末、はっきり言って都内の街中の人手は見た限り特別に減っていない。スナックも時短営業になってはいたが、人は集まった。常連のマッちゃんがハイボールをアホみたいに飲みながら面白いことを言っていた。会社勤めの彼は、勤務方法として出社してもテレワークでもどちらでもよいという選択肢を与えられていたが、それでも彼は頑なに出社を続けていた。 「だって、テレワークやったら終わった後酒飲んだらあかん気ぃすんねんやんか。会社行って、俺ちゃんと仕事してまっせっていうところを皆に証明したあとでないと、よっしゃ飲みに行くで~っていうことに罪悪感があんねん」 「それにな、テレワークしとるとコロナでテレワークしてます~っていう感じがあってなんか嫌やん。会社行けばいつも通りやん」  彼のような選択をする者は、聞いてみると意外にも多い。そんな選択肢を与えられたら一生テレワークをして座椅子に尻型のシミを作ってしまいそうな引きこもり体質のわたしには驚きというか目からウロコの意見であったが、健全で、そして日常に回帰しようとする本能的な人間らしい意見であるとも思った。  テレワークをしているとサボっているように思われるかもしれないという周りの顔色を恐れる部分も多分にあるのだろうが、いつも通りに戻りたいという願いと共に、いつも通りであると自らを錯覚させる人間のある意味生存本能のようなものも働いている気がした。人は本能的に当たり前の日常を求めて出社し、そして仕事が終われば社内での自分を脱ぎ捨てて酒場に集うのだろう。
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SF小説『虐殺器官』の台詞には
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