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時短営業中の飲み屋が馬キチたちの吹き溜まりに…札束が乱れ飛ぶ

粒アンコ

第四十夜 なにしろ、少額の勝負だからね

 午後二時。  薄暗い地下階段を降りていくと、ひんやりとした空気の中でヒールの音がやたらと反響した。普段はがやがやとした騒めきや調子外れなカラオケの歌声が漏れているビルも、打って変わって息をひそめるように静まり返っている。排水管から等間隔に滴る水の音だけが異界めいた響きをもって地下フロアにこだまする。いつも思うのだけど、昼間の明るさと蛍光灯の灯りが混じり合うと、繁華街の雑居ビルは一層うらぶれた感じが増すのはなんでだろう。  今日はまだ誰も来ていないのか――。  鈍色の取っ手を引いて店の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。カウンターには三人の常連客が腰かけていたが、誰もみなじっと押し黙ってテーブルの上に視線を注いでいる。向かい合って立つマスターも、近頃悪化した老眼で見えにくい手元のスマホを微妙に前後させつつ、時折首を捻りながら一心に眺めている。 「おはよう」目の端でマスターのスマホのカラフルな画面を捉えつつ私が言うと、「おう」と皆からまばらで上の空な返事が返ってきた。  チャチャチャチャッチャチャ~♪  背後のテレビモニターからもはや耳に馴染んだメロディが流れると、皆一斉にガバッと顔を上げて、くるりと椅子を回転させた。

店内に怒声が乱れ飛ぶ

『えー、まもなく出走致します中山競馬場第9レース。ただいま最後の11番がゲートに入りまして……全頭ゲートイン、スタートしました!』  早口な音声と共に、にわかに店内が沸き立ち、気が狂った声が上がる。 「よっしゃきた! 頼むよ横山~!!」「4番! 4番頼む!」「いきなり前に出過ぎだろ7番おい~っ!」  そう、彼らが真剣に眺めていたのは競馬新聞、マスターのスマホの画面にはJRAの投票サイト。時短要請と共にはじまった週末昼営業ではすっかりおなじみになりつつある、最近の当店の光景だ。カウンターに座るのは、奥から田中、マッチ、みっちゃんの競馬廃人トリオである。  コロナによる都の要請で七時迄しか酒類の提供ができなくなって、頭を悩ませた結果開店を早めて昼間から夕方にかけての営業へとシフトした飲食店も多く、当店もその例に漏れない。週末の昼間に営業を絞った結果、休日なのに競馬場にも場外馬券場にも行けず燻っていた面々が大集結。色気も食い気も捨てて、時には酒にすら目もくれず、ひたすら競馬新聞と馬券投票サイトと競馬チャンネルと睨めっこを続ける廃人の溜まり場と化した。  慣れてしまえばこういう非日常も悪くなく、むしろ結構楽しかったりする。  しばらくログインしていなかった投票サイトのパスワードをなんとか発掘し、「それならばいざ!」と、共に競馬に挑んだわたしはあれよあれよと真人間の坂を転げ落ち、見事に廃人の仲間入りをしかけている。 「どれ、次のレースからわたしも賭けるか……」  カウンターに入ってすぐさま自分のスマホを開くと、 「その前に俺の酒をくれよ」  と目の前の廃人マッチが苦虫を噛み潰したような顔で空のグラスを出した。渾身の3連単マルチが外れたのだろう。
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シケた当たりじゃ満たされない…
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