渋沢栄一に学ぶ、上司が逃げるほど提案しまくる「怒涛のプレゼンテクニック」
プレゼンは具体的かつ身近なもので
窮地の身でありながらも、組織の見極めに余念がなかった渋沢。一橋家は合格ラインに達したようだ。渋沢は「直接、慶喜公に拝謁したい」とまで言い出したが、平沢はこれも渋々ながら認めて「(慶喜公が)日中に馬に乗って遠出するときがあるから、そのときに駆けながらならばよい」としている。
このとき、慶喜はといえば、薩摩藩の島津久光に政治の主導権を握られぬように、参与会議を空中分解させるなど、まさに混乱する政局の真っただ中で奮闘していた。これから任官してくるという得体の知れない渋沢と会っているような状況ではなかったが、平沢がなんとかスケジュールを調節したのだろう。
その後、渋沢は室内でもお目通りが叶って「幕府を立て直す必要がある」と慶喜に強弁した。慶喜は「ふんふん」と聞き、賛成も反対もしなかったというから、さすが渋沢が見極めたリーダーだけあり、なかなか度量が深い。二人はその後、お互いを信頼し合う深い関係となり、明治26年頃には渋沢が慶喜の伝記を編さんしている。
さて、そんな渋沢が一橋家で一番やりたかったこと。それは「財政改革」である。
「一橋家は領地こそ少ないものの、仕組みを改善すれば財政は豊かになる」
渋沢はそう考えて3つのプランを打ち出した。それは「米の売り方の改善」「備中での硝石製造場の設立」「播州の木綿を売り出す仕組みの考案」だった。
まず、渋沢は商人に米の販売を任せる従来の方法を変えて、酒造業者に酒米として販売。相場より高く買ってもらえることに成功した。また、軍制の洋式化に伴い、硝石のニーズが高まるだろうと予測し、硝石製造場を開設している。
さらに、渋沢は播州で多く産出される白木綿に着目。白木綿を名物として、大阪の販売ルートを新規に開拓した。その際に、藩札を一橋家で発行して販売に活用することで、木綿の売買がしやすくなるシステムを構築させるなど、改革の手が休まることはなかった。
渋沢は財政改革案をプレゼンするにあたって、備中での硝石や播州の白木綿など、すでに地元にあるものの価値を再発見しようと考えた。米の販売ルートを変えたのも同様である。
いずれも斬新なアイデアでありながらも、みなの賛同を得られたのも、物自体にはなじみがあったからだろう。もし、見たことも聞いたこともない品物を売り込もうというのならば、実現のハードルはぐっと上がったはずだ。
いつも相手の立場に立ったうえで、説得することに長けていた渋沢。プレゼンにおいても、決して独りよがりになることはなかったのだ。そのコツは「斬新さと親しみやすさ」といったところだろうか。
ポジションは後から与えられる
伝記作家、偉人研究家、名言収集家。1979年兵庫県生まれ。同志社大学卒。業界誌編集長を経て、2020年に独立して執筆業に専念。『偉人名言迷言事典』『逃げまくった文豪たち』『10分で世界が広がる 15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』など著作多数。『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』は累計20万部を突破し、ベストセラーとなっている。名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。最新刊は『逆境に打ち勝った社長100の言葉』
記事一覧へ
記事一覧へ
【関連キーワードから記事を探す】
この記者は、他にもこんな記事を書いています




