人生のターニングポイントでいかに決断するか

飛鳥山公園の渋沢栄一像(Photo by AdobeStock)
幕末の動乱を経て、新しい明治時代の幕が開けたとき、一人の実業家が躍動した。男の名は、
渋沢栄一。500社もの会社設立に携わり、「
資本主義の父」と呼ばれた。渋沢は、相手の主張をいったん受け止めてからひっくり返す「説得テクニック」を用いて、数々の局面を乗り越えてきた。
【参考記事】⇒
渋沢栄一に学ぶ、相手を説得するテクニック。「いや」「でも」と否定しない
だが、ビジネスパーソンが渋沢から学ぶべきことは、ほかにもまだある。

※写真はイメージです(以下同)
それは、渋沢の「
決断力」である。もし、渋沢が決断力に欠けていたならば、実業家として名を残すことも、大蔵省で活躍することもなかっただろう。いや、それどころか、おそらく幕末期に命を落としていたに違いない。
ビジネスパーソンには欠かせない局面局面での「決断力」を、渋沢はいかに発揮したのか。そこには、時勢をとらえた「
変わり身テクニック」があった。
マシュー・ペリー率いる黒船が来航して江戸が大混乱に陥るなか、青年時代の渋沢は、尊王攘夷の思想に傾倒していた。尊敬する10歳年上の従兄弟、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)の影響である。
また惇忠の弟、長七郎が江戸帰りだったため、時事に精通しており、渋沢に今の日本の状況を話して聞かせた。22歳になった渋沢は、江戸に初めて遊学。幕府は危機的な状況にあると、あちこちで聞くうちに、こんな決意を固めた。
「ここは一つ派手に血祭りとなって、世間に騒動を起こす踏み台となろう」
渋沢と師の尾高惇忠、そして、もう一人の渋沢の従弟である喜作の3人が中心となり、「高崎城を乗っ取って、横浜の外国人商館を襲撃する」という計画を立てる。
あまりにも現実味がなかったが、本人たちは大真面目だ。渋沢は実行前に、父に打ち明けて、勘当されている。つまり、家族との縁を切られたのである。計画実行後に実家に迷惑をかけないようにと、渋沢がそれを望み、父がそれを受け入れた格好となった。
70人のメンバーを集めて、武器となる刀も調達して準備万端。あとは決行日を待つのみだ。渋沢は京にいる長七郎に飛脚を飛ばして、計画を知らせている。
思えば、実際に見聞きした江戸の状況を、自分に教えてくれたのは長七郎である。そのおかげで、こうして危機感を持つことができた。長七郎が今回の計画をどれだけ喜び、また、どんな反応をするか、渋沢は楽しみだったに違いない。
だが、長七郎は慌てて飛んできては、いきなりこう言った。
「暴挙を起こす計画は大間違いだ!」
まさかの長七郎の大反対にメンバーたちは唖然としたことだろう。だが、長七郎は「すでに攘夷の実行があちこちで失敗に終わっている」と説明し、計画を必死に止めようとした。
想像してほしい。もし、自分が渋沢の立場だったら、どんな決断をするだろうか。
実家と縁を切ってまで、これまで進めてきた計画である。かけてきた時間や費用、そして、なによりも注いできた情熱を思えば、何としてでも実行したいという思いに駆られることだろう。
しかし、渋沢は3昼夜にわたって激論した結果、こう結論を出している。
「犬死にするかもしれない。なるほど長七郎の説が道理にかなっている」
放送中の渋沢を主役としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、渋沢の強情さがうまく描写されている。だが、渋沢はそんな強情さとともに、「相手が自分より優れた見識を持っている」と思えば、素直に意見に従うところもあった。
このときもまさにそうであり、渋沢よりも長七郎のほうが明らかに新しい情報を豊富に持っている。ならば、長七郎の考えのほうが、自分より上であると、合理的に認めてしまうのが、渋沢の強みだった。
計画にかけた時間と費用は無駄になってしまったが、もし決行していたならば、幕府に捕らえられて、処刑されていてもおかしくはない。傷が浅いうちに撤退する「
損切り」を、渋沢は冷静に決断することができたのだ。