更新日:2021年08月28日 15:14
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「死ぬまでムチ打つぞ」タリバンに脅された日本人“恐怖の一夜”

タリバンが政権掌握、自由を求めて命がけで国外に逃げ出す人々

1998年当時の筆者。カンダハルから首都カブールへ向かう約500kmの道中。当時は30時間かかった

 8月15日、反政府武装勢力タリバンがアフガニスタンの首都・カブールに侵攻し、政権を掌握した。これは攻撃を開始してからたった10日あまりのできごとであった。  タリバンがカブールに入城した後、国外脱出を目指す人々が空港に殺到するようになった。離陸する輸送機にしがみつくも落下し7名が落命したり、自分の赤ちゃんだけでも出国させようとする親がいたり……という、衝撃的な光景が相次いで報道された。  2001年秋以来の約20年間、アメリカはアフガニスタンに軍を駐留させ、国作りに関わってきた。民主主義を根づかせようとしたり、女性の社会参加を促したりした。そんな米軍が撤退し、再びタリバンが政権を掌握することになった。  そしてこの急変する事態を受けて、再び自由が制限されることを怖れた人々が、命がけで国外を目指しているのだ。  政権を掌握して2日後の8月17日、タリバンは初めての記者会見を開催。「(米国協力者らへの)報復はしない」「教育や就労など女性の権利、報道の自由は、イスラム法の範囲で保障する」と、アフガニスタン国民や国際社会にアピールした。しかしその一方で、外国人協力者を個別訪問したり、ドイツ人ジャーナリストの家族が殺害される事件が発生したりと、情勢が暗転する兆しを見せている。  人々が逃げ出したくなるぐらいの恐怖政治が今後、やはり敷かれるのか。それともタリバンは以前とは変わっていて、安全な存在になったと言えるのか(この原稿を書いていた8月26日、カブール空港付近で2回の爆発があり、60人以上が死亡するという自爆テロ事件が発生、「イスラム国」が犯行声明を発表した。早くも暗雲が漂い始めている)。

残虐かつ強権的な所業の数々

 そもそもタリバンとはどんな集団なのか。その説明からしてみたい。  1994年、パキスタン難民キャンプのイスラム学校にいた聖職者や生徒たちが、パキスタンの後押しを受けて蜂起した。それがタリバンである。そのころアフガニスタンは内戦下にあった。  1989年にソ連を追い出し、政権についたイスラム戦士たちは内輪もめをして戦闘を激化させたり腐敗したり、ほとんど強盗団と化したりしていた。国内を平和にするどころか、戦乱の世へと導いてしまっていたのだ。  タリバンはそんなイスラム戦士たちを駆逐した。住民たちに「正義の味方」として歓迎され、あれよあれよという間に勢力を拡大。1996年にカブールを制圧し、彼ら主導による国作りが始まった。しかし、タリバンもまたアフガニスタンの人々を幸せにはしなかったようだ。  タリバンが信じている「イスラム教スンニ派」の教えを厳格に守るという方法で、この国を治めようとしたからだ。それは西側諸国の人間からすると過激すぎるものであった。  私が1998年当時聞いていたのは、以下のような所業の数々である。 ●女性に教育や就労の自由を認めず、移動の自由も制限。さらには、全身を追う水色の布「ブルカ」の着用を強制 ●物を盗んだ者の腕を切り落として引き回す、不貞で有罪となったカップルを投石により公開処刑するなど、残虐な刑罰 ●偶像崇拝を認めず、人や動物の写真を撮ることをご法度に。テレビやスポーツを禁止 ●タリバンを構成するパシュトゥン人以外の民族を虐殺  タリバンのやっていることは残虐かつ強権的な手法だと国際社会からは受け止められた。2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロの首謀者とされたウサーマ・ビン・ラーディンを匿っているということから、米軍をはじめとするNATO軍がアフガニスタンに侵攻、タリバン政権がカブールから駆逐されたことは周知の通りだ。タリバンが上記のような残虐で強権的な手法をとっていたことも、NATO軍侵攻の背景にはあった。
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アフガニスタン入国直後、銃を持った男に連行される
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